| 2012年12月28日(金) |
「ファースト・ポジション」 |
ニューヨークで開催される世界最大のバレエコンクールの涙と感動の舞台裏。
『ファースト・ポジション』 夢に向かって踊れ!
バレエ界の現実を切り取った映画でした。 ドキュメント秀作映画です!! サンフランシスコ・ドキュメンタリー映画祭2011 審査員最優秀映画受賞 トロント国際映画祭2011 ドキュメンタリー部門観客賞受賞 NYドキュメンタリー映画祭2011 ベストドキュメンタリー観客賞受賞 ポートランド国際映画祭2012 観客賞受賞 ダラス国際映画祭2012 観客賞受賞 レビュー満足度は96%!! 是非その動画で確かめてみてください。 検索推奨ですw
驚いたのは11歳のアラン君。 イタリア在住の米海軍医の息子。 アラン君は片道2時間かけてクラスに通います。 師事するのはオペラ座エトワール、マチュー・ガニオの父 デニス・ガニオ!! 11歳のアラン君はすでにバレエテクニックがほとんど完成していた―
俺、何歳よ??
まったくやる気なくすよねw わたしがまっとうに苦しんでるところをあっさり魅せてくれちゃいます。 そう、彼は努力していたんですよ。 見たこともない道具たちを使ってw ドラえもんも真っ青です 足の甲、つま先を矯正するフットストレッチャー。 アラン「これ、痛いんだよ?」 (わたしが通うスタジオの奥深くにもあるらしい、見たことないけど) 特殊なターン補助板で回転の感覚を養ったりしているんです。 その器具を見てその板欲しいっておもったもん。
足りないのは感覚を養う努力だな
感覚を新しく手に入れるのは生半可にいきません。 今でもシェネなんて端から端まで右左やったら三半規管からか一日中具合わるい。 こんなこと誰がわかってくれるんでしょうか。 誰もわかりません 吐き気が止まらないんです 嫌なものはやりたくない、だからといって何もしなければそのままです やるしかない 11歳のガキにできて大人にできないわけがない。 わたしがここでいうのは意識の問題です “上手に”とか“美しく”とかの話じゃありません。 意識は子どもよりも大人のほうが強く出せるはずじゃないですか。 子どもの頃しかできないことがあるのなら、 世の中を知っているからこそ強くできることもあるはずだ。
あたらしい自分のカラダをもっと自由にしてやりたい
ひとりひとりの努力は決して同じじゃない、同じじゃなくていいのだ。 ひとりひとりのカラダが違うからこそ最終的な努力は同じにはいかないはずです。 この映画は“バレエ”という種類のお話です。 試練を乗り越えなければ踊れる場所に出られない世界のお話です。 それは、踊りというものの一つの方向性。 決して“絶対”のものではありません だからといって世界を知ろうとしないのもおかしい。
あらゆる意味で、踊るということに変わりないからです
彼らの想いは情熱を超えています 踊るために必死な姿はわたしたちに限界がないことをおしえてくれます
この映画に出演する未来のダンサーたちはほとんどセレブリティな家庭のようでした。 学校で勉強するのをやめてまで練習に向かうくらいの。 そのカラダに寸分違わぬ衣裳をつくるだけで100万円を超えるような実情。 映画では“そうじゃなきゃ踊りはやれない”みたいなものも見受けられますが違う。 ◎わたしが師事する先生のクラスに通う子がこのYAGPで金賞を現実に獲得した◎ リアルファースト・ポジションです!! 世界各地で5000人以上が挑み、ファイナルに進めるのは200〜300人。 その頂点の一人をこの眼で見知っているんです!!
こんな身近に“世界”がいた
これほどわかりやすい指針はありません。 カラダの才能こそ大きく違うかもしれませんが、努力だけはそれを超えることができます その子の努力が間近で見れるなんてのはまったくありがたい話です。 乗り越えるべき壁がこの目でわかるんですから。
より短い時間で先にすすむためには目標をより具体化するしかない
あらゆる才能で負けたとしても、踊りたい気持ちだけは負けるわけにはいきません。 この世界ではそれがフィジカルと技術だということも事実です。
ここではフィジカルですべてを量られますが、その真逆も踊りにはあります
洋舞の世界では自らを踊るものをほとんど見ることはできません 全力がつかえるフィジカルを養い、全力で振付に挑んだ結果自らが現れる 自分を超えた自分 ところが自らを踊ることをやればやるほど簡単ではないことがわかります 自分を超えなければならないことに気づくからです 両極でありながらどちらも通るのは同じ、命の燃焼ではないでしょうか わたしたちは生きて死ぬだけです そのことに優劣はないように、好き嫌いでこころを閉じるべきではないでしょう 考えてみれば誰しも好き嫌いでどれだけ世界を狭くしているかわかりません 触れてみたらその奥深さに驚き、これまでの世界が一変するチャンスがあります ただそれには“本物”に触れる必要があります クラシックダンサーは自らを踊るダンサーを卑下するふしがあるし 自らを踊るダンサーはその逆を言うふしがある 本当はどちらもすばらしいことなのに なぜそのようになってしまうのかわたしには理解できません もしかしたら自分がいる“世界”が絶対のものになってしまうからかもしれない いや、それよりも中途半端すぎる踊りがあふれているからかもしれません 力があればある人ほどそれを区別できてしまうからです
わたしは伝えたい“今”を踊ることがしたい 伝えたい気持ちが大きいものでも小さくても、どちらも素敵なものに違いはありません なぜ踊るのかを見つめることがダンスを引き出すのです
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