クリント・イーストウッド主演映画。 エイミー・アダムスはちょっと個性が強すぎるとおもった―
『人生の特等席』 スカウトマン、娘1人。キャリア最後の旅に出る。
家庭を顧みず、メジャーリーグ・スカウトマンとして生きてきた父。 視力が衰え、目がかすみ始めた彼の最後のスカウトの旅に手を貸したのは、父との間にわだかまりを感じ続けてきたひとり娘のミッキー。 妻を亡くし、男手ひとつで育てようとして育てられなかった父娘の旅の最後に、それぞれが見つけた人生の特等席とは―
稀代の名優の見納めと思われた『グラン・トリノ』以来、クリント・イーストウッド4年ぶりの主演作である本作を監督するのは、20年近く彼のもとで共に映画を作り続け、生涯でただひとりの弟子と認められた、イーストウッドDNAの継承者ロバート・ロレンツ。 見る人を心の底から幸せにする、父と娘のハートウォーミング・ストーリー。
「ダメなら解雇だ」
「野球は変わった。 彼はパソコンどころかタイプも使えない」
「お前に野球の何が分かる? パソコンなんかに若い奴らの才能は見抜けん!」
「分かってないのね… パパと一緒に野球を観てた場所は― 私の特等席だった」
イーストウッド演じる主人公ガスにはある秘密があります。 その秘密こそが娘との距離を生み出す最大の原因でした。 そして、娘ミッキーは父と一緒にいることがしあわせだったんです。 ガスはミッキーを親戚にあずけてしまいます。 父に捨てられたと思い込んだ幼いミッキーは心を病んで精神科にかかってしまいます。 実は捨てられたのではなかったわけですが。。 スカウトマンは移動を強いられる職業のため娘を常に連れていること自体が問題でした。 父、ガスは娘に人並みの生活を送らせたいとおもっていた。 最後に選んだのは“自分の手から手離す”だったのです。 しかしここに至るまでには秘密→決定的な事件こそが引き金になっています。 ミッキーは父と積極的に会話しようと迫りますが、ガスは取り合いません。 そんなやり取りの繰り返しを見ながら考えたことがあります。
“実の親子だからこそ言えないこともある”
自分自身に置き換えても、母にはなんでも話せるけれど父とはできません。 そのわだかまりがどんなに取るに足らない小さなことだとしても、です。 考えれば考えるほど悩んでしまいました… 男とはプライドあるいきものだからかもしれません。 ものすごいデリケートな問題です。 不思議ですね 父に思うことは“強くなくてはならない”というものを感じるというものです。 そこには子に対する親、その責任というものもありましょう。 “こうあらなくてはならない”そういう種類のものです。
うちの父の場合は、完全なる理詰めです
物事をどれくらい知っているか、そしてそれをどう考えているか。 すこしでも甘い分析で会話を組み立てると、たちまち叱責されてしまいます!! 一番気をつけなくてはならないのは社会的な地位と立場の問題です。 特に社会的な見られ方の上での言動には厳しいものがあります。 事実、そういう立場で仕事をしてきた父ですから考えれば当然でしょう。 わたしは“最終的には自分の生き方だから誰にどう見られてもいい”と思っています。 が、これが父には通りません!
“どう見られてもいい”を回避する努力をしろ
そして、最後にぶちあたったのはこれでした。 “父はわたしを子どもだとおもっているのではないか” きっとまだまだ子どもに“見える”んでしょうね。。 わたしの父が考える「大人と子供の境界線」がどこにあるのかわからないけれどw なぜか思い当たるふしだけはたくさんあるw
なんてこった―
見る人を心の底から幸せにする、父と娘のハートウォーミング・ストーリー。 →「心の底から」って言い切るのはどうかと思いますがw 物語のラストは痛快でした! もうちょっと痛快にしてもよかったとおもうけどね! でも痛快にしすぎないところが現実リアル志向だともおもえますw
クリント・イーストウッドは死ぬまでカッコイイのだということは確かそうです☆
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