| 2012年11月21日(水) |
「ベルリン国立美術館展」 |
父にいきなり「ついて来い」と言われ行ってきました!(強制率140%)
フェルメール「真珠の首飾りの少女」 『ベルリン国立美術館展』 学べるヨーロッパ美術の400年。 〜会ってほしい少女がいます〜
久しぶりに行ってきましたよ、国立博物館w まずは行く途中にあった看板から紹介したいとおもいます☆
【不法投棄監視中】 ハットトリック開発
そんな企業に「監視中」って言われてもなーーー きっとサッカーが好きで好きでたまらない開発なんでしょうねw そんな名前ですからおそらくサッカー観戦に忙しくて監視は二の次のはずです。 でもたぶん不法投棄もオフサイド判定くらいのシビアさで監視できるはずです。 是非ともサッカーより監視を頑張ってほしいものです。 父が運転する高級セダンはわたしが事故った代車とは安全性桁違い。 安心ですw
だってわたしの事故現場を通らなければ国立博物館には行けないのだから
記憶が欠落して思い出せないとはいえ、どうしても複雑な気持ちにかられます いまだになぜ事故がおこったのか思い出せないからです 思い出したいわけではないけれど、さすがに通行するとなるとあの気持ちがぶり返します わたしに今必要なのは過去を振り返ることじゃなく、未来への開発です。 自分自身のダンスへの飽くなき開発なんです とは言ってもハットトリックじゃありません。 〜ハットとリックでもない〜 こうしてハットトリック開発にたすけられました。
世の中すべてのことがわたしたちをたすけてくれています
展覧会で印象に残るのは「ルクレティア」と「黄金の兜の男」。 後者はレンブラント派らしいのですが、もう黄金の兜が凄い。 男が凄いんじゃあないw まったく黄金です、まったく黄金でした。 光のコントラストに圧倒される!! そこにいくと、この展のタイトルにもあるフェルメールを語らないわけにはいかない! ヨハネス・フェルメール(1632-1675オランダ)の光の描写はもう鳥肌ものでした― ほんものの光が見えるのだからもう理屈じゃないやい! その絵は明らかに真珠の少女が焦点ではありませんでした。 どう見ても“光”だ フェルメールの代表作「真珠の耳飾りの少女」とはまったく趣きは異なります。 「首飾り」と「耳飾り」でここまで違うとは知りませんでしたが凄かった!!
その空間はいつまでも見ていられるのです
わたしは“ダンス”でそのような空間を見たこと、空間を感じたことが何度もあります。 美しいものから得体の知れないものまで。 大事なのはそれが“本物”であることではないかとおもいます しかし、よくよく考えると絵は偽物ではありませんか。 だって本物の光を見ているんじゃないんです。 〜これは不思議です〜
偽物のなかに本物がある
中に生きているもの、ということができるかもしれません。 人間にはそういうものを感じる力があるのだとおもいます 作者が凄いからその名声で凄いというものではなく、絵が凄いから凄いんです。 作者によって物事を捉える視点、見え方は違うでしょう。 わたしたちも同じです。 ひとりひとり違うものが見えている、違うものを見ているはずですよね? ところがなぜだかわからないけれど共感することはできる 共感できるからこそ作品は時代を超えてあらゆるひとに見られるのだとおもいます その時代を切り取ったものには強烈な作品もあります。 強烈なものがゆるされる時代もあったのだとおもいます。 強烈なものは著しくとりあげられますが長続きするなんてほんの一握り。 「真珠の首飾りの少女」は強烈な作品ではありませんでした。 一見すればたいしたものには全然見えないくらいです。 しかし、見れば見るほど唸ります。 その凄みに飲み込まれてしまいます
この感覚は不思議です インパクトではないからです
ダンスにも同じものがある。 わたしが目指すものもこちら側です どうしたらその域に達することができるのでしょうか
答えは絵がおしえてくれているのかもしれません
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