ぴんよろ日記
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精霊流し。 どうしたことか、いろいろなことがかみ合わさって、県庁前でひとり、2時間ほど精霊流しをボーッと見ることができた。ここ数年の「まだグニャグニャ赤ん坊のミサキンを片手にさだまさし家の船を必死に見る」「ミサキンおんぶ&ヒコの手を引いて大雨に降られる」ということからすると、「大丈夫かな?実は知らないうちに私だけあの世に来てない?」レベルの静けさ。ありがたくボーッとする。 長崎の精霊流しは、まず、クレイジーとしか思えないが、じゃぁどうしてこうなのか、こうまでしないといけないのか、という問題がある。「しないといけない」というと、意識的に筋道立ってる感じだが、どちらかというと「気が済まない」ということだと思う。精霊船を出さない年でも、だいたいお墓参りはするわけだが、何カ所もの墓参りを終えたあとの気持ちは、私の場合「あぁ、気が済んだ」というのがもっとも近い。義務感といえばいえなくもないが、もっと心身の奥底の部分の欠乏が満たされる感じ。お墓参りも精霊流しも「対象者」は明らかに「不在」なのだから、無駄も無駄、無意味の極みだ。だけど人は、それをせずには「気が済まない」。動物と人間をわかつもののひとつが葬送儀礼であるともいうが、だとしたら、無意味なことをするからこそ人間で、その行為が無意味であればあるほど人間の人間らしい部分が活性化する、ということで、他県民から見れば「どうかしてる」長崎のお盆は、人間らしさ大爆発である。 でも、じゃぁ長崎の人は、どうしてこれほどまでに膨大な手間と心とお金をかけて死者を送るのだろう。毎年、当然のように何千もの船が出て、ゾロゾロと流されてゆく光景は、パッと見もびっくりだし、といって、冷静になればなるほど、ますます不可解だ。だからどうしてなんだろう、と、ずっと思ってきた。そして昨日、県庁前のガードレールに座って、缶ビール2本目くらいで、「あぁ、そうか、弔うものが多すぎるんだ」とわかった。一隻の精霊船は、理屈の上では、ある家のある故人を送るってことになってるけど、それプラス、この街で過去に大発生した膨大な「弔いの債務」みたいなものがあって、10年100年じゃとても払いきれない…つまり「気が済まない」から、その後みんなで分担して払い続けているのだと。 この「債務」は、直接的には禁教や原爆、近いところでは水害というようなことが考えられるだろうけど、でも、それだけかなぁ、と思うと、それにはちょっと違和感が残る。もっと漠然とした「弔いを必要とするもの」も、ゆらゆらしているような気がするので、それはまたなんだろう…と考えてみる。もちろんこれはあくまで「気がする」レベルの話だから、なんの証明もできないのだけど、缶ビール3本目で「こりゃー、中継地点だからだな」と思った。単純ではあるけど、地理的に「西方浄土への中継点」だから、いろんなとこから西方浄土を目指して来た方々が、この世からのホップステップジャ〜ンプ!って飛んでいく踏み切り板のようなもの。あるいは、まさにあの世への船がじゃんじゃん流れているので、相乗りして行けるから「おーい集まれ〜、船が出てるぞ〜、乗ってけ乗ってけ〜」みたいな状態。「『相乗り』ってあり?」って思われるかもしれないが、初盆ではない家のお供えって、小さなゴザみたいな「コモ」でくるくるって丸めて流すけど、近所に精霊船がいたら、一緒に乗せてもらったりするし(見ず知らずの人でも)、それは問題ないだろう。
そんなこんなで、8月15日の長崎は、人的霊的地理的条件が相まって、「大混雑」なのである。
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