ぴんよろ日記
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| 2011年10月05日(水) |
祭りパソコンで再構成 |
朝はだいたい、ミサキンの「ハイ〜(乳やれ〜の意)」攻撃で起きる。7時前くらい。この時間、乳を吸われながら、用意していた本を読むことが多い。今朝は、プリントアウトした甲野先生のメルマガ(「夜間飛行(http://yakan-hiko.com/)」の「風の先、風の跡」)。そしたら、昨日書いた「祭りの片鱗」について、甲野先生のメルマガ内で連載されている、数学者の森田真生さんの文章の中で、共通しているような気がするものを見つけた。時々、自分の脳味噌が沸騰しかける音が聞こえてくるような気もするが、なんとか乗り越え(あるいは前向きにスルーし)つつ読む。 「『ゲーデルの不完全性定理』を様々なアナロジーを駆使しながら巧みに解説した、歴史的名著」である「ゲーデル、エッシャー、バッハ〜あるいは不思議の環」を書いたという、ホフスタッターというアメリカの学者。残念ながらその「歴史的名著」をまったく知らなかった私だが、ホフスタッターの妻が1歳と3歳の子どもを残して亡くなったのち、彼女のことを深く深く思い続け、それが彼の研究となって立ちあらわれたという話だ。
(以下引用。)
ホフスタッターは途方に暮れ、自分が妻を失ったということ以上に、妻が失ったものを想い、悩み、苦しむ。自分が失ってしまったものならばまだしも、今は亡き妻が失ってしまったもの…子どもたちが小学校に入学する姿や、大きくなって恋人を作ったり、孫が生まれたり…本当はやって来るはずだった時間、本当は目にすることができたはずの光景、そうした妻が失ってしまったものを想い、ホフスタッターは悲しみに暮れる。
様々なカウンセラーのもとを訪れてみても傷が癒えることはなく、やがてホフスタッターは再び研究に熱中しはじめる。それは、妻が失ってしまったものを取り返すためにである。あるいは、妻はなにも失っていなかったのだと、納得するためにである。(引用終わり)
この後、アラン・チューリングという数学者が1936年に示したという、のちの「ソフトウエア」に通じる考え方(『自分自身について語れる形式体系を構成することができるならば、「計算機を計算する計算機」、すなわち『他のあらゆる計算機をシミュレートする計算機(universal machine)」が作れるはずだ)が紹介される。つまりは、その仕組みは到底わからないけど、こうして毎日使っているパソコンも、その考え方に深く関わるものだという。そしてホフスタッターは「私たち人間自身、チューリングのuniversal machine とおなじ意味で、まさにuniversalな存在ではないだろうか」という考えに至ったのだと。
(以下引用)
私たちの心の本質は、私たちの脳というハードウエアの上で、他者の心をシミュレートすることができることにある。子どもたちの笑顔を見ているときに、時に、妻の心が自分の脳を乗っ取り、自分が妻の心そのものになって子どもたちを眺めていることがある、とホフスタッターはいう。あるいは、友人と食事をして盛り上がっているときに、私や友人たちの脳の間に、妻の姿が立ち上がってくることがある、と。
すなわち、本来、奥さんの存在は、決して奥さんの肉体の内側だけに限定されていたものではなかったのではないか。はじめから、奥さんの存在は、彼女の肉体の上で実現したり、ときにはホフスタッターの脳を乗っ取って存在したり、あるいはホフスタッターとその友人たちのあいだに存在していたのであって、そういうハードウエアとは独立な、なにか抽象的なパターンそのものが、奥さんの奥さんらしさの本質だったのではないか。そのようにホフスタッターは考えはじめるのである。(引用終わり)
これって、まさしくおとといの「庭見せ」のときに感じた、あるいは昨日の「人数揃い(本番さながらのリハーサル)」を見ながら感じた感覚そのものだ。祭りの場に立つということは、ふだん使っているのとは違う、特別な「パソコン」に、自分をつないで走らせるということなのかもしれない。さらにその「祭りパソコン」は、「日常パソコン」よりも、いわゆる「自分/私」というものが薄まるのがひとつの特徴なのではないか。
(以下引用)
ここでホフスタッターがやろうとしているのは、「私」という概念の再構成である。「私」という存在が肉体の中に束縛された、死とともに消えいく存在だとしたら、妻が失ったものを一生取り返すことができない。しかし、「私」という概念を再構成して、肉体という束縛から解放してやることができないか。私たちがお互いに映りあい、写しあう、そのあいだに存在するなにかであるということを、もっとヴィヴィッドに感じることはできないか。そこに、ホフスタッターは数学を投入して、全身全霊の思索を展開していくのである。(引用終わり)
この状態、「日常パソコン」ではなかなか感じにくいけど、「祭りパソコン」ではいける、というより、それこそが祭りという気がする。
コッコデショは、くんちの奉納踊りの中でも、とびぬけて「自由」がない。前回と今回を見比べると(そしてもちろん、これまでもずっとそうだったのだろうけど)、演出やかけ声など、よく見ると変わっている部分があるが、それはあくまで「よく見る(聞く)と」であり、よほど好きな人でもほとんどわからないと思う。私は前回、番組を作り、練習、本番、そして編集と、何百回も見て、聞いたので「あれっ?」と気がついただけだ。ちなみに彼らが歩くときのかけ声は、前にもどこかで書いたかもしれないけれど、少なくとも「30分の1秒」単位では正確に刻まれている。編集するときに、声だけ残して別の映像を貼りかえても、完全にリップシンクロしていた(7年前はまだ『リニア編集』だったのです。1シーン変更するのに、ダビングを繰り返したものでした…)。最近、他の町では(特に船もの)、どんどん新しい演出をしたり、激しい表情を作ったり、気合いだとか魂だとか叫んでみたりしているけれど、コッコデショにはそれがない。というか、できない。ずいぶん前に、宝塚だったかなんだったかの大層な演出家がコッコデショを見て「完璧ですね…」と言われたらしいが、長い年月の間に、無数の人によって隅々まで磨き込まれたものなので、いじりようもないのだ(そして、いらんことを叫ぶ余地もない。担ぎながら、走りながら、大音量のかけ声を途切れることなく出し続けなくてはならないのだから)。担ぎ手一人分のスペースは60センチほど。内側の棒にいたっては、顔も見えやしない。みっしり、ぎっしり、息を合わせ、声を合わせて、とにかく動く。 昨日、そんなコッコデショを見ながら思ったのは「なんだ!この、とてつもなく大きくて自由なエネルギーは!」ということだった。いつもの「私」が消えたところにあらわれる、また別の次元の私、あるいはそれを超えたもの。再構成される、人と町。
と、どこまでも考えは続くのであったが、せっかく今日は休みのダンナが、風邪引いて気の毒。チャーハンが食べたいと訴える声が聞こえてきた。ごはんがないのでどっか食べにいくことにしよう。
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