ぴんよろ日記
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昨日は庭見せだった。保育園帰りに車で浜の町に行って本古川町と東古川町を見て、一度家に帰ってバスでくだり、樺島町へ。たくさんの人人人…。そんな中、ふいと道の脇に入ったら、樺島町のMさんと会った。飾られた太鼓山と人の波を前に、しばらく話す。7年経ったね、とか、かけ声やリズムって、その年ごとにずいぶん変わるものなんですね、など。そしてなにより、亡くなったMさんの妻…私もとってもお世話になったYさんのこと。 まさに昨日もだったのだけど、ここ数日、Yさんによく似た人を何度も見かけて、そのたびに「いやいや、Yさんはもう…」と思っていたところだった。このようなことは以前、ダンナ父のバージョン(お盆前)も体験したことがあるのだが、ただ単に似てる人がいただけかもしれないし、私が心のどこかで気にしてるだけとも、もちろん言える。その人にゆかりのあるできごとがあるから、おのずと思い出された、というのが、だいたいのところだろう。だけど、昨日Mさんと「この何日か、Yさんによく似た人を何度も見たんですよ…だから、きっと見に来られてるんですよね」「うん。そうかもわからんねー。」と話した瞬間だけは、それが「真実」として成立していたと思う。 その証拠に、かどうかはわからないのだけど、Mさんと話していた数分間は、なんというか…時間の感覚が、普通とはまったく違っていて、それは既視感ともまた違う、これまでに一度も経験したことのない感覚だった。むりやり言葉にするならば、7年前とおなじ日、ほぼおなじ時間におなじ場所でおなじ光景を見ながら、それらが完璧に違うものであることがわかりつつ、それと同時に、また別の次元では、完璧におなじなんらかの存在が顕われ、それに触れている、というようなものだった。時間のない場所があるとするならば、一瞬だけ、そこに立つことができたような感じ。かつて「見える」お姉さんから「霊感は…ありませんね」と言われたが、この瞬間だけは、そんながさつな私でも、どこか別の領域に「つながった」ことがわかった。祭り、というものの正体の片鱗にタッチできたのかもしれない。 くんちという祭りは、だから、私にとっては「生きて」いるものだとわかった。それにどこまで触れられて、書きあらわすことができるだろうか、と気持ちを新たにする。
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