ぴんよろ日記
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| 2011年08月23日(火) |
「の」じゃなくて「は」 |
昨日の日記で書いた、「鳥肌は立たなかったけど涙が出てしまった」コッコデショの「なにものか」に関連して、このところ考えていたこと。
どうもここ数年、くんちの奉納踊りをする人たちは、「踊り」あるいは「祭り」と「自分たち」の関係を低く設定しすぎているような気がする。自分たちの感動や達成感を第一目標に置いてしまっているというか。祭りのものごとは、たとえそれをしている人がどんな大変な思いをしていようとも、その人たち個人のものではない。個人が楽しむ祭りももちろんあるけれど(よさこいとかは、これ。たぶん。)くんちは違うと思う。その始まりは「キリシタン禁制がどうのこうの」「町の人に散財させるために華やかにした」云々…言えば言うほど長崎お得意の「自虐的自慢話」になりそうなことだとされているが、たとえそうだったとしても、そういう「マイナス縁起」からスタートして、400年近い年月をかけ、本来「まつり」というものが持っている意味と力を獲得していると、私は強く思っている。その上で、そういう「まつり」には、「個人」が顔を出すもんじゃないんだけどなー、と思うのだ。 変なたとえかもしれないけど、なまはげが、その中に入ってる「個人」を出してくることはない。まつりを演じる人は、あくまでまつりの魂を「受肉」した存在であって、「どこのなにがし」さんではないのだ。だから、このところ、やたら奉納踊りの中で激しい表情を見せたり、「俺たちの」なんて言ってみたりする風潮にしっくりこなくて(そう明言したのは去年出た某町だが、意識としては他の町にも多々ある)、自分でもその理由を考えていた。 くんちは、まつりは、個人とか「俺たち」が「所有」できるようなものじゃない。もっと大きな次元のものだ。だから、「俺たち」って言いたいのであれば、「俺たち『の』」じゃなくて、もっと上を見て、大きな存在と一体になるつもりで「俺たち『は』」というレベルを目指すべきなのではないだろうか。
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