ぴんよろ日記
DiaryINDEX|past|will
| 2011年02月14日(月) |
書けるときに、長々と。 |
気付くと日記がどーんと空く。いかんいかん。そして幼児と赤ん坊と過ごす時間が圧倒的に多いので、大人と会話する言葉がたなざらしにされており、使おうとすると口ごもる。いちいち探しだしてきて、ほこりを払って取り出すというような感じ。
前回の日記の日…なんたることだ、先々週の土曜じゃないか…は、ヒコのおゆうぎ会だった。例年、本番での弱さを遺憾なく発揮しているが、今回も「箱根八里の半次郎」を、ほとんど踊らなかった。終始こちらを見てニヤニヤ。でもマジックショーは一応やれていたので良しとしよう。そもそもこの週はインフルエンザで休んでいた。なんとかギリギリ出られたのだ。出られただけでも良しとしよう。
ミサキンも寝てることだし、書けるときに書いておこう。わっしょいわっしょい。
こないだの土曜日は、なぜか地学方面に興味があるヒコが楽しみにしていた天体観望会に行った。まずシリウスが見えて、オリオン座を見て、木星を見て、月を見た。科学館の人がいろいろ説明してくれる。お医者さんもだけど、理系の人が「普通の人にもわかるよう」かみ砕いてくれる話が大好き。この日は「オリオン座って呼ばれているけれど、それはあくまで『便宜上』なので、誰がどんな星をどんなふうに結んで何座って呼んでもかまわない」という話がおもしろかった。「僕(ヒコ)がリボンに見えたら『リボン座』でいいし、蝶々に見えたら『ちょうちょ座』でもいいんだよ」と。星はひとつひとつに住所のようなものが割り振られていて、天文学の専門家などはそちらを使うので、かなりメジャーな星座も知らない人がけっこういるらしい。ほかにも「お〜、今日は月が高いですね。この時期の月は太陽より高く上がりますからね」という、なんだか時空がぐにゃりとダリの絵みたいになっちゃうような話もあって、興味津々。ヒコもいくつもの望遠鏡を何度も行き来して堪能していた。科学館の方々も小さい子が来るのは嬉しいようで「来月は土星が見えるからおいでね〜」と誘われていた。 「便宜上に過ぎない星座を絶対の常識と思い込む」ようなことって、いっぱいありそうだ。
中通りの昆布屋さんで、松葉昆布と山葵の葉の佃煮を買う。ここ最近、そういうものがないと落ち着かなくなってしまった。桃屋のいかの塩辛も常備。塩辛はまだしも、お茶漬け用の昆布や佃煮を自分で買う日が来るなんて、びっくりだ。体か心のどこかがおばちゃんになったんだと思う。そのうち墓を建てたくなったりするのだろうか?それはともかく、それぞれの年齢に応じた需要と供給があるわけで、順番に年取って行くんだし、取った先にはそれまでとは違う楽しみや世界が広がっているのだから、なんで年取ることに「アンチ」な態度が必要なのかわからない。この人生、1日分たりとも過去に戻りたいと思ったことはない。男になりたいと思ったこともない。目標が「ばあさんになること」な人間が、そんなこと思うわけはないが。まぁしかし、昆布は買うようになったが、赤ん坊もいることだし「ばあさん」にはまだまだ長い道のりである。たぶん。
ランタンを、久しぶりのフィルムカメラで撮った。ふんわりとした雰囲気になるというISO1600で撮ったというのもあるのだろうけど、出来上がってきた写真を見て、なんだか妙に感動してしまった。デジカメの写真が写真じゃないとはもちろん言わないけれど、写真というものは…やっぱり、こっちなんじゃないのか?と。世の中には、じゃんじゃんデジカメでいい写真もたくさんあるし、デジカメでなきゃ撮れないものもあるだろう。メモがわりに使うことだってある。でも、普通の人が普通に家族を撮る写真こそは、フィルムのほうがいいと思ってしまったのだ。デジカメのほうが気楽だし、安くつくし…と、もちろん私も思っていたから、なぜ「フィルムだ」と思ってしまったのか、うーむ、考えた。 撮る時の気持ち、現像を待つ気持ち、できあがってきた時の気持ち、みんなで見る時の気持ち…そういうものがやはり、手に取れる「物体」だと喚起されやすい、というのが、まず思いつく理由ではある。それと、こないだ「1年1冊アルバム」を写真屋さんで現像して作ったときに感じたのは、「人の手で現像され、プリントされる」ことが、まったくプライベートな写真であっても、なにかひとつ「世に生まれ出た」感をプラスしてくれるということ。さらに今回思ったのは、家族や友だちが肉体を持った人間だからこそのものであるように、彼らと過ごす時間を焼き付けた写真もまたフィルムや印画紙という「肉体」を必要としているのではないかということだ。それは妙な理屈なんだけど、理屈で割り切れないのが家族やら肉体やら人間関係やらである。家族はデジタルに割り切れない。だいたいどうして私にこのダンナがいて、この息子がいて、娘まで生まれたのかわからない。わからないけれど、目の前にいて、一緒に暮らして、ごはんを食べて、眠っている。そういうものだから、デジタルではないほうのものと「親和性」があるのだ。物体として残るという大切さもあるけれど、それ以前に、家族やら友だちやらそういう存在のありかたと「フィルム」がなじむのだと思う。 もうひょっとしたら使うことはないんじゃないかと思っていたカメラと、がんばって買ったレンズが、がぜん復活。
|