ぴんよろ日記
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2010年07月16日(金) 生々しさと空々しさのあいだに

 蝉が本気鳴き。たぶん梅雨明けなんだろう。お昼のサンドイッチのおともにカップスープを作っていたら、勢いよくかき混ぜすぎて飛び出して、指をやけどした。
 何年かに一度、こうした小さいやけどをするたびに、原爆のやけどって、いったいどれくらい熱くて痛いものだったのかと思う。男か女かわからなくなるくらい焼けるって、それでも生きてるって、あるいは死んでしまうって、どれくらいのことなんだろう。
 原爆のことって、物心ついた時からあまりにも普通にありすぎて、ピンと来ないところがある。夏になったらニュースで増える話題…というような。そして大きすぎてまた、ピンと来ない。やけどのように。
 でも、このところいろいろ思うところあって、何らかのとらえどころがきっと見つかる時が来るような気もしてきた。直接体験した人の想像を絶する話や姿、あるいは、やみくもに汗だけかきながら「平和平和」と唱える…ことではなくて、いまを生きる人たちの生活や感覚の中で、ポツポツと足がかりになるようなこと…を、自分が何らかの形あるもので示せることもあるのかもしれない、まだぜんぜんわからないけれど、いま現在、原爆を語るときに付いてまわりがちな「生々しさ」と「空々しさ」のあいだに、なにか、なにかまだ、やりようがあるんじゃないか、と。

 昨日ついに、永ちゃんのCDを買った。矢沢永吉という人が同時代に生きていることについては、みんなもうちょっと真剣に、その「恵み」について自覚したほうがいいのかもしれない。まだ筋道立てては、うまく言えないのだけど、これまでちょっとだけバカにしてた感もある「永ちゃんががんばるから、オレもがんばれる」というようなことが、車の窓あけてガンガンに永ちゃんを聴いてると、「いや、それ、あるかも。よろしく!」っていう気持ちになるから不思議だ…。いや、これは、なんとも言いようがない。永ちゃんの音楽が好きかって聴かれたら、それはまた微妙なんだけど、聴いてるのは音楽のようで音楽じゃないっていうか、ほんともう、それは、永ちゃんが存在するってことの「恵み」の一環であり、恵みに触れるための何か、というような。音楽って、ひょっとしたらみんなそうなのかもしれないのだけど、とにかく不思議な感覚だ。


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