ぴんよろ日記
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ザラメと綿アメ…のようなものか、と思いつつ、 昨日の夜中、テレビを見ていた。
アメリカのテロでダンナが死んでしまった人が、 長崎から広島まで、墓標のような石を引いて歩くというものだったのだが、 その人が長崎の被爆者と話をするシーンがあって、 どんなに体験を語っているときでも、いちばん悲しい気持ちは、 心の中の小箱に収めたままにしておく、というようなことを言っていた。 そうだろうな。 些細なことから、とんでもなく強烈なことまで、 だれかがあるできごとによって心に受けたことや、 そこから発生した気持ちの核心は、本当に個人的なことで、 突きつめてしまえば、人とは共有できない。 ダンナがテロで死んだ人の悲しみは、 たぶん、ダンナをテロで亡くしてみないとわからない。 (恋愛小説をいくら読んでも、実際の恋の破壊力には遠く遠く及ばないように) でもそれを言っちゃおしまいだから、 それによって自分の心や行動に、どうしようもなく引き起こってしまうことを、 人に見せたり、伝えたり、共有しようとしたりしてみる。 固いザラメは心の奥底に沈めて、ブワーッと出てきた綿アメを手渡す。 受け取った人は、自分が持っている味覚の範囲でアメを味わい、 条件が整ってしまえば、自分の中にも、固いザラメができてしまうことを思う。 すると、本物のザラメには遠く及ばないけれど、小さな擬似ザラメが生まれる。 そしてもし、本物のザラメを発生させるような気配が立ちこめたとき、 擬似ザラメを持っているか持っていないかでは、 その気配への敏感さが変わってくる。 悲しいことに関してならば、危険への感受性が高まる。
個人的なことは、個人的なことに過ぎないけど、 でも、けっきょく人は、個人的なことしか身にしみてわからないし、 個人的なことに置き換えなければ、心からはなにも思えない。 だからそれぞれが、どんどん個人的になって、 お互いの個人的な部分に訴えかけていくしか、共感の方法はないだろう。 小さな擬似ザラメを作りあうことでしか、 本当のザラメを新しく作ってしまうことは防げない。
個人じゃなくて、社会とか世界とか人類とか、大きく語れば語るほど、 本当のところからは遠ざかっていく。なにかが見えなくなっていく。 でも、大きく漠然と捉えているほうが、格好が付いて見えたり、 いろんな意味での力を集めたり使ったりしやすいことも多い。 どんな方向を向いていようと、力の魅力と誘惑は、強い。
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朝はツナサンド。 卵を固ゆでにして混ぜようかと思ってゆがいて剥いてみたら、 絶妙に半熟だったので、混ぜるのはやめて、そのまま食べる。念願の半熟。 メープルパン、梨、みかん、野菜ジュース。
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人とのメールのやりとりの中で、お好み焼きという言葉が出てきて、 すごくお好み焼きを食べたくなってしまい、新大工へ。 みやちでお好み焼きを食べて、はるもとでかき氷を食べようと思ったのだ。 そしたらみやちは、夜市に出店するとかで、昼は休みだった。 しばらくショックで茫然として、本屋でボーっとして、 気を取り直して、アストリアでトルコライスを食べることを決めた。 ごはんを少なめにしてもらったら、とてもちょうど良かった。 ツル茶んのトルコライスが好きなんだけど、アストリアもいいな、と思った。 スパゲティのケチャップ具合が好みだった。 「こんなにおいしかったかな」と思いながら食べることができたのは、 たぶんごはんの量がちょうど良かったからだろう。
はるもとで蜜掛け。入れかわり立ち代わりお客さんは来るけど、 いつもひとつは大きなテーブルが空いてるという、 小さなテーブルにひとりで座っている私にもプレッシャーのない、 快適なデザートタイムだった。 最後の、溶けてしまった液体をスプーンですすりながら、 甘露、という言葉を思い出した。
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夜は豚の薄切りを焼いて、私はカボス醤油あっさりバージョン。 遅く帰ってきたダンナは、甘辛ショウガ焼きバージョン。 冷や奴、小ネギの一文字ぐるぐる風、ゆで玉子とアスパラ、など。
なぜか食べたくなったので、角煮を仕込むが、 大根も入れたい、卵もおいしい、人参だっていいはずだ、長ネギも、と、 角煮と言うより和風ポトフになってしまった。 お風呂に入っているとき、換気扇から流れてきたのは、ほぼおでんの匂いだった。
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