ぴんよろ日記
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2004年06月02日(水) 大義名分

どれだけの影響力があるか、怪しくないわけではないけれど、
「長崎の港をぶった切る橋ができる2006年に向けて、
 長崎の観光をより良いものにいたしましょう」という動きがある。
そして私は、それについて、大いに心配している。
「観光という大義名分」によって、たくさんのものが壊されると予想している。

観光は、それをする側が、その土地の「光を観る」ことであって、
される側が意図的に、それを目的とした「光を作る」ことではない。

思ってもみてください。
「オレはこんなにカッコいいんだから、
 さぁ、そこのオバサン、ボトルを入れてください」
と言ってるようなものだ。
世の中にはそういう男の人がいて、もちろんそれはそれで、
ある瞬間は夢やお金が素敵に行き来している。
でもそれは、結局は、嘘でしょう?

わかっててやる「観光」なんて、スケベ心以外の何ものでもない。
市民総出でもみ手してるような町に、だれが来たいものか。

私は、そういう意味での長崎の観光のことなんて、ぜんぜん考えるつもりはない。
プレスで書いている「ナガサキ観光さんぽ」という連載は、
すでに固定化されてしまった「観光地」を、
もういちど長崎の人に向けて解き放ちたいという、ささやかな試みだ。
観光は、考えてやれることじゃない。
そういう人たちがよく口にする「本物を求める人たち」は、
用意された観光の仕掛けになんてだまされない。
心ある旅の人というのは、
その土地の人が、町と暮らしを愛している時間と空間に、スッと来て、共有し、
取り立ててひけらかさなくても、自分なりの何かを得て帰ってゆく。

もちろん、きっちり楽しませてくれる部分はあっていい。
だけどそれを、路地裏にまで押し広げるのは、
日常や生活に対する「大義名分」の暴力になってしまうのだ。

有事法では「事」が起こると、
民家の庭でも必要とあらば開放しなくてはいけないらしい。
それと同じで「観光のため」と言われれば、
暮らしの中で大切にされているものや空間が
踏み荒らされることも大いに考えられるし、
すでにそうなっている所も増えてきた。
私は私なりに、違うだろ、と思い、
これからも何らかの形で書いたりしていくつもりだが、
きっとたくさんのものや空気が姿を消すと思うので、
いまのうちに見ておいた方がいいだろう。

ただ、どれだけ長崎の上っ面がそうやって荒れてしまっても、
この特筆すべき地理、地形、自然の価値は変わらないので、
それだけでも長崎は、本質的に救われてしまっている。
すべてをなくしても、またそこからやっていけるだろう。
国破れかぶれて山河あり…私が予測する、長崎のこれからだ。


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