ヲトナの普段着

2005年06月04日(土) 女を愛せない男たち

 愛するってなんだろう。人を好きになるって、どういうことなんだろう。逢いたさが募るほどに苦しくて、逢えない時間が切なくて、それなのに目の前にその子が現れた途端に、苦しさや切なさがすぅーっと消えていってしまう。それが愛するっていうことなんだろうか。それが、人を好きになるということなんだろうか……。
 
 
 ライブチャットでは、日々そこかしこで恋愛争奪戦が繰り広げられている。上手に波に乗る人もいるだろうし、振り回されてしまう人もいるだろう。一生懸命なのにちっとも思い通りにいかないとうなだれる人もいれば、無意識に恋絵巻を描きあげていく人もいるのだと思う。どちらかというと、巧くいかないことのほうが多いような気がするのは、僕の視野が狭いせいだろうか。ライブチャットには、女の愛し方を知らない、女を愛せない男が多いように感じられてならない。
 
 愛するという行為を考えるとき、僕の脳裏には幾つかのシーンが思い浮かんでくる。それは、子どもを慈しみ育てる親の姿であったり、見返りを求めずに奉仕する人々の姿であったり、無言で寄り添う老夫婦の後姿であったりする。愛というものほど、形がありそうでないものもないのかもしれない。いがみあっているのに愛し合う人たちもいれば、求め合っても愛し合えない人たちというのもいる。それらを分け隔ててしまうものとは、いったい何なのだろうか。
 
 人を好きになったとき、まずはじめに心に浮かぶのは、「自分を見つけて欲しい」という願いのような気がする。「こっちを向いて欲しい」とか、「気持ちに気づいて欲しい」とか言葉は色々あるけれど、あなたのことが好きなんだという自分に気づき、それを認めて欲しいと願う心が、人を好きになった際にはまず胸を焦がすのではなかろうか。そして、考えてみたら、そのままの状態でどこまでも行ってしまっているが故に、想いが食い違ったりすれ違ったり、ときに空回りしてしまい、愛という段階へと入ることなく終わってしまうもののようにも思える。
 
 人間というのは知性と理性を兼ね備えている。それを言い換えると、僕は「心」という言葉になるのではなかろうかと思うわけだけど、その心があるために、人は自分を守ろうとしてしまう。心本来のあり方に気づかぬまま、最も感じやすい己の心を守ろうとしてしまう。それは、行動としてどのような形になるかというと、そう、「求める」という行動に他ならないだろう。「求めよ、さらば与えられん」と誰かさんが言ったみたいだけど、求めるという行動は、人間がとる衝動的行動の基本なのかもしれない。
 
 「こんなに愛してるのに」という人がいる。「一生懸命なのに、どうしてわかってくれないんだ」という人がいる。彼は確かに、相手に対して強い想いを抱いているに違いないんだけど、はたしてそれが愛と呼べるのだろうか。強く求めることも、たしかに愛には違いないけど、求めるだけでは成立しないのもまた、愛の難しいところではなかろうか。求めることの裏返し、つまりは「受けとめること」があってはじめて、それは愛と呼べるように僕には思える。
 
 
 ライブチャットというシステムは、形の上では男性客優位のシステムだと僕は感じている。客はチャトレを選べるが、チャトレは客を選べない。客はチャトレの待機状態やチャット状態を把握できるけど、チャトレが客の状態を把握することは叶わない。そういう世界が、ライブチャットというものだとも思える。
 
 男性優位であるということの意味。それは色々ありそうだけど、殊に弊害という視点で考えてみると、男の女に対する一方的な想いを生み出しやすい環境に違いないのだろう。選択権というのは、裏返せばそういうことになるからだ。古い時代に、この国の男女関係がそうであったように、対等でない立場や境遇というのは、人の心を屈折させ偏見で縛ってしまう危惧すらある。
 
 もっと平たく書くと、男性優位のシステムに染まってしまうと、男という生き物は、女の扱いが粗雑になる傾向が強いということだ。アダルトチャットで自分本位にさっさと抜いて立ち去る輩などその最たるもので、ノーマルチャットにあっても、女の立場や気持ちなど推し量ることなく、自分の想いだけを必至に伝える恋愛押売の手合いが後を絶たないではないか。
 
 ライブチャットは、女を愛せない男を生み出している。僕にはそう思えるときがある。愛するということの本当の意味と甘美さに気づかず、気持ちを伝えることだけが愛だと信じてしまう男たちを、このライブチャットは生み出しているように思えてならない。
 
 
 愛するって……とても難しい。


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ヒロイ