ヲトナの普段着

2005年05月31日(火) 好き嫌い

 幼い頃に両親に何を一番に仕付けられたかと振り返ると、やはり食べ物の好き嫌いだったような気がする。おかげで僕は、みずから好んで口にしないものはあるけれど、食べられないものというのがない。そんな僕は、人の好き嫌いもさほど激しいほうでは……ない。
 
 
 きつい論調でコラムを書いていると、「こいつは人の好き嫌いが激しそうだな」と受け取られがちなように感じているんだけど、これほどの博愛主義者もそうそういないと自負している。大仰な物言いはいつものこととしても、人を嫌いになれないのだから仕方がない。
 
 世に棲む人々もそれぞれで、僕のコラムに反感を覚え、反論や批判を寄せてくれる人ももちろんいる。そういう人たちを前にしても、僕のなかに「厭だな」とか「こいつは嫌いだ」という感覚は、不思議なことにそれほど沸き起こってはこない。だからこそ、僕はそれらの言葉に素直に自分の考えを返すし、拒絶したことも一度もなかったような気がする。
 
 相手を認めるというのはとても難しいことで、誰だって自分を認めてもらってはじめて、相手を認めるというプロセスを経るものだろうと思う。されど僕はあえて、自分を否定されても相手を認める立場をとってみたいと考えている。よく性善説性悪説なんて考え方があるようだけど、僕は人の心というのは基本的に善であって、さまざまなしがらみや固有の知性、価値観が、それを見る人の目にさまざまに映してしまうだけだと思っている。だからこそ、それを穿った目で見なければ、そこにはその人が持つ良さも自然と見えてくるのではないだろうか。
 
 
 これまでチャットをしてきて、幾度か「あれ、おれ嫌われてるのか?」と感じた瞬間があった。会話がどうも噛みあわず、チャトレのノリも明らかに悪い。相性というのもあるから、ある程度は仕方がないのかなとも思う反面、チャトレならあわせろよとも思ってしまう。もちろん、僕が暴言吐いたり脈絡のないエロおやじに変身してるなら話は別だろうけど、ごくごく普通にチャットしていてそうなるのだから、「客」としては不満たらたらである。
 
 いつだったか、ウェブデザインを本職でやってるという二十歳そこそこのチャトレちゃんと話したことがあって、僕は素直な気持ちで「ぼくのサイトも見てみてよ」と言ったんだ。彼女は少々かったるそうにその場で「アドレスは?」と訊き、僕が教えたURLをそこで開くや否や、渋い顔をしてあれこれと酷評をしてくださった。率直なところ、どれも承知してそうしているものばかりで、融通のなさにむしろ僕が彼女に対して渋い顔をしたくらいなんだけど、不思議と、自分が彼女を嫌う以前に「おれ嫌われてるのかな」と感じたように覚えている。
 
 正直であることは悪いことではない。いかにチャトレとはいえ、嘘ついたり自分を繕って客と相対すべきではないと僕は思っている。けれど、最低限の心配りというか、人と相対する上でのエチケットのようなものは、チャトレという立場であるなら身につけておくべきだろう。
 
 
 「嫌いなものは嫌いなんだから仕方ないじゃん」と仰るだろうか。現代の風潮をみていると、なんとなくそんな言葉がまかり通ってしまいそうな気がして、僕は少々不安にもなってくる。自己というものが、本当に自己のみで成立してるなら、おやじも口をすっぱくして言いはしないけど、自分以外の人間と関係を持ちつつ存在しているのが自己である限りは、その言葉は間違っていると思うからだ。
 
 好き嫌いがいけないと教えられた幼い頃に、僕はもうひとつ、他人に迷惑をかける生き方をしてはいけないということも教わりつつ育った。迷惑をかけるとはどういうことだろうか。目に見える形で迷惑をかけることのみならず、相対する人の心に影を落とすことも、やはり迷惑ではなかろうか。迷惑とは読んで字の如く、「迷わせ惑わせる」という意味だ。会話している相手の心を不安にさせる行為は、僕は迷惑な行為に値すると思っている。
 
 人間関係もさまざまだから、そういう迷惑行為がむしろ良好な関係を育むことも、僕は否定しない。例えば恋愛という範疇にあっては、心に落ちた不安という影が、むしろふたりの絆を深める結果に繋がることだってあるだろう。されど、チャトレという立場でそれを行っていいのだろうか。
 
 
 好き嫌いは多かれ少なかれ誰にでもあると思う。僕は自分のことを博愛主義者だなどと書いたけれど、嫌いといわぬまでも苦手な人たちはいる。けれど、立場はわきまえる。それすら感じられないチャトレを見かけたとき、「駄目」というハンコをポンと押してあげたくなるのは、おやじのわがままだろうか……。


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