ヲトナの普段着

2005年05月29日(日) Shall we ダンス ?

 映画「Shall we Dance ?」が公開された。ご存知の方も多いだろうけど、周防監督作品「Shall we ダンス ?」の米国リメイク版だ。リチャード・ギアにジェニファー・ロペスというハリウッドらしい豪華キャスティングに、原版「〜ダンス?」に見惚れた僕も強く惹かれるものがあるけど、今回は洋画の話というわけでは……ない。
 
 
 「Shall we ダンス ?」の公式サイトを開いてみると、フラッシュムービーの冒頭に「もう一度、人生に恋してみよう」という文字が表示される。あの作品が、なぜあそこまで楽しく切ないのか。役所広司演じる杉山が、なぜ社交ダンスに魅せられ熱中していくのか。その答えが、僕はこの「もう一度、人生に恋してみよう」という文字に現れていると思う。
 
 社会に組して生きていると、幸せというものの基準を、僕らは自然と「比較」のなかから見つけようとしてしまう。安定した職を持ち、社会的立場に恵まれ、マイホームと温かい家族に囲まれた姿を、幸せという言葉に置き換えようとしてしまう。不満があるわけじゃない。後悔しているわけでもない。けれどふと、仕事と家庭というエリアを行き来する狭間で、「自分は何者なんだろう」と考えてしまうことはあるのだと思う。
 
 生きるって何だろうか。人間である意味って何だろうか。そう思い始めたときに、きっと人の心のなかで何かが弾け、覚醒するのかもしれない。道は色々あるだろうけれど、「杉山」が見つけたのは社交ダンスだった。それに打ち込むことで、自分をひとりの「人間」として見、その可能性と生きる意味を手にしていったのだと僕は思う。
 
 とは言え、杉山が社交ダンスの世界に入った切っ掛けは、ダンス教室の先生「舞」に恋したからだった。それが真剣にダンスに打ち込むまでの過程は、僕がここに書くようなことではないのかもしれない。むしろ僕は、恋という切っ掛けにより、自分でも幸せだと思いこんでいたはずの杉山が、もう一度自分の人生を見つめなおそうとしたことにこそ、この作品の素晴らしさがあるような気がしている。
 
 
 人との出逢いというのは、人生という流れのなかにおいて、数限りなく繰り返されてゆく。されどそのひとつひとつに重要な意味を見つけるのは困難で、僕らはいつからか、出逢いが自分に語りかけてくるメッセージを見過ごすことに慣れてしまっているのではなかろうか。
 
 映画や小説に壮大なロマンを感じたりすると、とかく人はドラマティックな人生に憧れるものだ。自分にも何か特別な才能があるのかもしれない。世界にふたつとない出逢いと人生が待ち構えているかもしれない。そうは思っても、一向にその「瞬間」が訪れることはなく、気づけば時間に流されてありきたりな人生をとぼとぼと歩いていたりする。
 
 けれど本当は、その小さな一歩一歩に底知れぬ可能性があって、映画や小説を彷彿とさせるドラマも潜んでいることに、意外と人は気づかず通り過ぎてゆくものなのかもしれない。
 
 
 ライブチャットに集う人の数というのは、果たしてどれくらいなのだろうか。ここでは、日々数多の出逢いがあり、ドラマが生まれ、そして消えてゆく。ひとときの安らぎや快楽も悪いことはぜんぜんないけれど、その一歩先にある「何か」を掴む人は、そうそういないような気がする。
 
 人と出逢うということ。そこで言葉を交わすということ。それが自分にとってどのような意味を持つのかを、考えながらチャットしてる人なんて、きっといないんだろうなとも思える。僕自身、チャットしながらそんなことは考えていない。
 
 けれど振り返ってみると、ひとつひとつに何か意味があったような気がしてくる。見過ごしてしまったかもしれないけど、この手でつかめなかったかもしれないけど、僕はそのときその道を歩いていたんだなと改めて思ったりはする。そしてそんな道の上に、いまも僕はいるんだと思う。
 
 
 もう一度、人生に恋してみよう。
 Shall we チャット ?


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