ヲトナの普段着

2005年05月13日(金) チャトレと客との感覚差を考える

 少々分かり難いタイトルかもしれないけど、チャトレが客に対して覚えるリアル感覚と客がチャトレに対して感じるそれとの違いを、ライブチャットにおけるハード環境を拠り所に考えてみようというのが今回のお題。ハード環境とはすなわち、カメラ映像のことね。
 
 
 ライブチャット草創期(とはいっても、ほんの2〜3年前)にあっては、双方向カメラでお互いの姿を確認しつつ行うチャットは、ライブチャット世界でも珍しいものだった。いまでは多くのサイトで採用されているし、双方向カメラでもポイント消費が一方向(チャトレ側の映像のみ映る)と変わらないサイトも数多く見られるけど、当初は双方向にするだけでポイント二倍というサイトも珍しくなかったのである。
 
 まあその辺の事情はさておき、このカメラ映像があるのとないのとでは、人の心にどのような心理的変化が起こるのであろうか。それを知らずに感覚の違いに疑問を感じているお客さんも、ライブチャット界には多くいるような気がする……。
 
 
 僕がネットをはじめた頃、仲間とのやりとりはメールか掲示板だった。例えばいま、あるひとりの女性とメールで交流をはじめたとする。僕と彼女とは文字で常に意思を伝達してるよね。文字は適切な使い方をすれば、かなり高い確率でその人を正確に伝えてくれると僕は感じてるんだけど、それでもどこかつかみ所が無いというか、現実世界の人を相手にしてないような錯覚を覚えることも無くはない。
 
 それがある日、サイトなりメールなりで彼女の写真を見た瞬間に、「ああ、この人は現実に存在している人なんだ」という感覚が僕のなかに芽生えてくる。写真を見ながら、この人が僕宛にこういう文章をメールしてくれてるんだなと、そこで初めてリアルな相手を認識するわけですな。すると僕のなかでは(少々特異かもしれないけど)、次に彼女から送られてくるメールの文字たちを見た刹那、そこには彼女の姿が思い浮かぶんだ。それまでは姿かたちがなかったのに、写真一枚を見ただけで、文字の向こう側に姿が見えるようになるわけ。
 
 
 チャットサイトにあって、僕をはじめとする客たちは、常にチャトレの姿を見ながら会話を楽しんでいる。だから僕にとっては、相対するチャトレたちは常にリアルな存在として認識しやすい。当たり前だよね。目の前で笑ったり怒ったりする表情がつぶさに見られるんだから。けれど彼女たちからすればそうはいかないんだな。双方向カメラで姿を確認できれば話は別だけど、客の姿が見えない状態で行っているチャットは、単なる文字チャットと何ら変わらないということ。
 
 これまで過去数回、チャットのなかで「ヒロイさんの写真はどこかにないの?」と訊かれたことがあった。僕自身はもう数年前からサイトで姿を出してるから、たいていはその話をして確認してもらうか、差し支えなければメール添付で相手に写真を届けるということをしている。双方向カメラを使えば手っ取り早いのはわかっているんだけど、いかんせん……会社で営業中に繋ぐのがほとんどですので、現実問題としてこちらからカメラ映像を送るのは難しいんでございます。
 
 写真を見てもらうと、まあ反応はさまざまだけど、概ね「安心した」という声が返ってきたように思える。それは何も僕が「化け物」か何かではなかったということではなく、現実にここに存在している生身の男であることを、彼女たちが写真から感じてくれたからだろうと僕は解釈している。写真一枚が持つ力の凄さは、前述したように僕自身がこれまで幾度となく感じてきたものだからね。
 
 
 文字だけではどうしても今ひとつリアルに感じられない。個人差はあるだろうけど、多かれ少なかれそういう感覚を人は覚えるのではなかろうか。ということは、僕らがチャトレたちに対して抱くリアル感覚とはまるで別の感覚を、文字しか見ていない彼女たちは感じているということにもなってくる。それを客は理解しなければいけないんだろうな。
 
 客が自分のリアル感覚で想いの丈をチャトレに伝えたとしよう。客にしてみれば目の前にいる「姿ある女性」に語りかけるわけだから、そりゃリアルでしょう。けれど、チャトレにしてみれば、映像や写真がなければそれは「ただの文字情報」とも受け取れる。姿かたちがないところから愛の告白をされたところで、そこにリアルな感覚を見いだせというほうに無理がありはしないだろうか。
 
 そういう環境の違いがもたらす感覚の違いをふまえないと、やはりトラブルの種となりそうな気がしてならない。せっかくの縁で出会ったふたりが、限られた時間を楽しく過すためにも、お互いがどのような感覚でその場にいるのかを推し量ることは、きっと必要な思いやりなんだろうな。


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ヒロイ