| 2004年04月05日(月) |
同性間の恋愛〜恋愛の本質1 |
過日、同性間の恋愛について、ある女性と言葉を交わす機会がありました。僕自身は「男を恋愛の対象になど考えたくもない」と思っていたのですが、冷静にその辺のことを考えていると、なかなか興味深い命題にも感じられ、徒然になってしまいますが書き留めておこうかと思います。 話の発端は、「ほんとうの恋愛というものは異性間では成立し得ない」という言葉からでした。論そのものは彼女のものでなく、どこかで目にしたらしいのですが、同意せず理解しきれないまでも、どことなく印象に残る言葉であったという話でした。 恋愛というのも形はさまざまで、それを一概に論じるには無理があると思えますけど、視点をその精神的な側面に絞って考えてみると、その発言もまんざら突拍子のないものでもないように僕には思えました。それを「好き」とか「愛している」という表現で代用するかは測れませんが、例えば歴史上の人物に「憧れる」心の動きをみても、そこには恋愛に通じるものがある気がします。 男が女を愛し、女は男を愛するものだという論拠は、僕流には、人間も生き物であり種を存続させる本能を持っているからということになるのですが、それだけが恋愛でないことは自明の理であって、生殖や肉欲を度外視した精神的な繋がりを求める心も、人間には確かにあるのだと思います。 同性間でも恋愛感情が成立するということは、おそらく多くの賛同を得るのではなかろうかと思うわけですが、それでは「異性間の恋愛より同性間の恋愛のほうが成立しやすい」という論点に至ると、果たしてどれだけの賛同が得られるのでしょうか。いかんせん「ケース」が多岐に渡る恋愛ですので、その取っ掛かりすら見出すのが困難には違いないのですが、そこをあえて前述の「歴史上の人物」から掘り起こしてみたいと思います。 僕は歴史が好きです。学生の頃は、「歴史」や「社会」という授業が嫌で嫌で仕方がなかったのですが、社会へ飛び出す少し前頃から、過去の時間に埋もれた人間の姿に深く傾倒しはじめたように思い返されます。そう、僕にとっての歴史とは、まさに「人間のいきざま」そのものであって、歴史上の人物に憧れ惚れこむ心の底には、彼らを人間として敬慕する気持ちがあるんです。 僕がいう「歴史上の人物」とは、そのほとんどが男性です。過去という時間のなかには、当然のことながら女性で名を馳せた方も大勢いますが、僕が興味を抱いてきたのは常に男性でした。そこにはおそらく、僕自身が男であって、彼らのように生きられないまでも、そこに自分が持つ「性」の根拠と進む先を見出したいという欲求が強くあったのだと思えます。それは明らかに自身との比較であり、同性であるが故に「近づけるかもしれない」という生物的な本能もまた、そこには隠されているような気がします。 そのような感情を恋愛と呼ぶのかには疑問が残るところですが、「執心する」という恋愛特有の感情面においては、とても似通ったものがあると感じます。恋愛もその基本は、慈しみ敬うことでしょうし、憧れや羨望がそんな感情を生み出すことは想像に難くありません。けれどなぜか、歴史に登場する女性たちに対しては、僕はそういう感情を抱かないんです。素晴らしい人たちだとは思っても、慕い敬う気持ちにはなれないんです。それはなぜでしょうか。 人間というのはどこか計算高い生き物で、自分をできるだけ上手に「生かして」いくために、さまざまな場面で数多くの「無意識の計算」をしているものだと僕は感じています。その計算は、こと恋愛に関しても例外ではなく、状況に応じた計算をしながら、男も女も生きているのではないでしょうか。そしてその計算を極力せずに済む間柄が、恋愛においては同性なのかもしれないと僕には思えるふしもあるんです。 平たくいえば、それは「同性間には利害関係が生じ難い」という論になろうかと思います。繁殖活動の必要性はありませんし、性による立場の違い、例えば「妻と夫」というようなものも同性にはないでしょう。種の存続という本能のために異性を争奪する意識は、男をも女をも、心身ともに成長させ変化させてゆきます。言い換えると、その本能を刺激する必然性を排除すればそこには、相手を人間として純粋にみる目が生まれてくるともいえるでしょう。それこそが僕が着目したい点であり、同性間の恋愛成立を後押しする背景でもあるように思えるわけです。 「しがらみ」のない状態というのは、どのような場面においても心と体を解き放ってくれます。それは人が求める「幸せ」という構図の、かなり中心に近い部分にあるものだとも思えます。異性間でしがらみを抱えて恋愛するよりも、同性間で少しでもしがらみの少ない状況で恋愛するほうが安易であると感じても、僕には無理がないように思えるんです。 【つづく】
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