| 2004年03月22日(月) |
繋がる理由・別れる理由 |
過日某文芸誌を読んでいた際、作中にある「繋がる理由はひとつなのに、別れる理由はいくつもある」という一節に目が留まりました。なかなか巧いことをいうなと感心したのですが、考えるにつれ、その文言にとどまらぬ恋愛の奥義がみえてきた気がしました。 男女が繋がる理由、いいかえると別れられない理由とは、いわずとしれた「相手への情」でしょう。ひらたくいえば「好きだ」ということです。出逢いにせよその後の長い時間にせよ、繋がる状態の根幹には、相手に対する愛情が確固として存在しているはずです。社会的や経済的な理由を挙げる方もいるかもしれませんが、それらは「恋愛」というカテゴリーの外にあるものですので、今回の論旨からは除外されるかと思います。 恋愛の初期段階において、「相手のどんなところが好きなの?」と訊かれ、それに適切に応えられる人は少ないかと想像します。すべてを把握し理解した上での恋愛開始などは、およそ男女の世界には存在し得ないということです。「好きになるのに理由があるか」などと多少乱暴な物言いをする方もいますが、言い得て妙だとも僕には思えます。そんな理屈を考えつつ恋愛に染まる人など、おそらくいないのではないでしょうか。 よく「運命」とか「縁」という言葉を男女の出逢いに重ねることがありますけど、たしかに幾千という人ごみのなかで出逢い恋におちるふたりには、何がしか人智の及ばぬ力が作用しているのかもしれません。人間は、あまたある生き物のなかでも、とりわけ考える能力を授かった生き物に違いありませんが、ある日突然異性に惹かれる感情には、難しい理屈など無意味なのかもしれませんね。「要するに好きになっちゃったんだ」というひとことで、話は済んでしまうようにも思えます。 そんな恋人同士であっても、付き合いが続くうちに、その狭間には大小さまざまな波がたつものです。価値観の相違もあるでしょう。どうしても受け入れられない性格が露呈することもあるかと思います。たったひとつの「駄目」で別れを決断する人は、おそらくゼロに近いほど少ないであろうと思うわけですが、それらが幾つか積み重なってゆき、あるとき大きな波に足許をさらわれると、そこで人は別れを意識しはじめるのかもしれません。 人間十人いれば、そこには十の価値観と十の性質が存在するものです。相手が自分と同一でない以上は、価値観や性格の不一致は必然的なものだと僕には思えます。それらを許容できる、もしくは相手が歩み寄ってくれる状況であれば、別れを迎えることもないのでしょう。相容れぬ部分がたとえ小さくとも積み重なってくると、それはやがて大きな溝を作ってしまうもののようです。 最近は少なくなりましたが、かつて若かりし頃は、友人の別れ話に酒を片手に耳を傾けた時代がありました。男女問わず、別れるときというのは、とめどなく相手に対する批難が噴出してくるものです。なかには自身を批難する人もいますけど、その背後には、そんな自分を許容してくれそうにない相手への批難が見え隠れし、要するに「もうやって行けないわけでしょ」と、こちらの「裁定」を待ち望んでいる場合が少なくなかった覚えがあります。 「あんな人だと思わなかった」という台詞もよく耳にしましたけど、それが最初からわかっていて関係を持つ人間などいるのでしょうか。わからずに付き合いはじめているのですから、気づかなかった自分を卑下する必要もなければ、理解されなかった相手を責める道理もなかろうと僕には思えます。繋がり続け関係を深めていくことでみえてきたものが、双方受け入れられなかったというだけに過ぎません。 他方で、いくら大波小波がたとうとも、繋がり続ける人たちはいます。夫婦というものはかくあるべきだ、などと偉そうな口上を述べるつもりはありませんが、少なくとも僕自身はそれを実感しつつ夫婦生活をつづけています。およそ乗り越えられないような大波であろうとも、溺れるなら共に溺れても本望という気概でふたりが難題に対峙すれば、仮に遭難の憂き目に逢おうとも、おそらく関係は持続することでしょう。 その頑張れる根底にあるのは、やはり相手に対する情に他ならず、そう考えてみると、「別れる理由は数あれど、別れてしまった最大の理由は好きでいられなくなったから」というところに行き着きそうな気がします。つまり言い換えると、あまたある別れの理由ですら、それらをふたりで乗り越える気持ちがあればクリアできるのが人生というもので、それを行う気持ちになれないから別れを選ぶという見方もできるかと思えるわけです。 これはとても大切なことでして、前述したように人間十人いれば十の価値観や性質があるように、自分と同じで何から何までしっくりくる相手などというのは、おそらくこの世に存在しないでしょう。それなのに、自分に適した相手をどこまでも探し続けていこうとするのが人間というもので、そのエゴイスティックな姿にはときに呆れてしまいます。そして同時に、可哀そうだなとも思います。 恋愛の醍醐味、夫婦の醍醐味というものには、また別のコラムが書けそうなほど幅広いものがありそうですけど、そういう大波小波を一緒に乗り越えてゆき、ときに慰めときに叱咤しつつも、性質の異なるふたつの個性体があたかもひとつの生き物のように歩みを共にしてゆく姿にこそ、僕は隠されているような気がしています。自分と同一を捜し求める恋愛漂浪者たちの姿には、そういう苦難を絆とかえてゆく発展性が感じられないんです。だから哀しいなと思います。 もっとも世の中には、切りたいと意図してもなぜか切れてくれない関係というものあるわけで、男女の繋がりを惚れたはれたで片付けられないのは自明の理といわざるを得ないのかもしれませんが……。 ---- Information ------------------------------ 【Figure Vol.2-06:Noble 公開】
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