| 2004年03月01日(月) |
わたしってひねくれもの? /慰めの押売 |
人の振りみて我が振りなおせ、という言葉があります。世の中にはいろいろな人がいますけど、ある行為をみていて「どうして素直に感謝できるの?俺ならすねちゃうよ、ひねくれちゃうよ」と感じるのが、慰めの押売です。 インターネットという世界にも、じつにさまざまな人たちがいると日々思うわけですが、みていて嫌だなと感じるというか、この世界には、妙に「善人」が多いとは思いませんか。人間なんかそうそう善人になれるはずもないのに、どうしてこうもネットには「善人」が多いのでしょうか。もう僕のようなひねくれ者は、そこのところが気に食わなくて仕方がありません。 ある人が人生の大きな壁にぶつかり、苦しみ悩んでいると、それまで閑散としていた場所であっても、不思議とアリが砂糖に群がるように人々が寄ってきます。ワイドショーのような感覚の人も多いかもしれませんが、まるで「怖いもの見たさ」の如く群がるバーチャル人間たちに、僕は率直に嫌悪を覚えます。 優しい言葉をかけたり、場合によっては相談に乗ってあげる人もいます。彼らは、その第一段階ではまさに「いい人」だと僕も思います。ネットという特殊な空間だからこそ、縁もゆかりもない人が、心から案じて言葉をかけることもできるんです。それを否定はしません。けれど、明らかに立ち直ってきているのに、いつまでも「大丈夫?」とか「殻にこもっちゃ駄目だよ」とかいうのは、どう考えても行き過ぎでしょう。そういう輩に限って、相手のことを心配しているのではなく、自身の言葉に酔いしれているようにしか僕にはみえないわけです。はい、ひねくれてます。 僕はこれまでも、幾度か相談を受けたことがあります。内容は多岐に渡りますが、概ね僕は、親身に言葉を返してきたつもりです。それはある程度、相手に伝わっているとも感じています。ただし、行き過ぎた覚えはありません。それは、「最終的には、自分の人生は自分の足で歩むものだ」という考えが僕の中にあるからです。 足を一歩前に出せない状態のとき、それを励ますことはできます。一緒に苦しみを分かつことも可能でしょう。けれど当人も、いつまでも他人の力で歩くわけにはいかないんです。それこそ、傍で介添えしているほうも無責任だと僕には思えます。相手の人生にそれなりに責任を持つならまだしも、たかがネットというわけのわからぬ空間での関係であるならば、自分の気持ちを伝えたら、あとはさっさと傍観すべきでしょう。そして、あとは静かに見守るべきだと僕は思います。 多少暴言のきらいもありますが、その点はご容赦ください。とにかく善人ぶるヤツが嫌いなんです、僕は。まあ、それも「善人ぶってるわけじゃなく、それがその人の個性なんだ」と切り返されそうな気はするのですが……。 優しさって何なんだろうって思います。かつてコラムにも書いた覚えがありますが、人を愛すること、その人が幸せになってくれるのを祈ることからは、果たしてどのような行動が生み出されるのでしょうか。一緒にいることだけが愛情だとは僕には思えません。過去にそういうことで傷を覚えたこともあるのですが、その人が幸せになるために自分が引かねばならないときは、勇断をもって静かに消えることも大切だと僕は思っています。 人間は弱い生き物だと僕は思います。そういう側面では、慰めがどれだけその人の糧になるかを考えると、まんざら否定ばかりもしてられないのが真実に違いないでしょう。だからといって、気づかないまでも、自身の満足のために慰めをつづけるのはどうかと思います。そういう光景を目の当たりにするにつけ、ひねくれ者の僕は、「こういう奴ほど、実社会ではお年寄りに席を譲らないんだろうな」とか思ってしまうわけです。 そして同時に、書き物を趣味とする者として、文字はやはり怖ろしいとも思います。言葉の裏にどのような想いがあっても、それを記し読み取る者によって、変幻自在に姿を変えてしまう可能性があるからです。それを素直に読めない僕は、やはりひねくれ者かもしれません。されど文字によって具現化された善の世界に酔っている人間の光景も、同時に僕にはみえる気がするんです。 悪人でいたい人など基本的には皆無に近いでしょう。誰もが心に善を持ち、それを誰かに伝えたいと思いながら生きているのだと思います。ただその表現方法を誤ると、慰めもいつしか負荷へと姿を変えることを、僕は忘れたくありません。 ---- Information ------------------------------ 【Figure Vol.2-03:Yearning 公開】
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