| 2004年02月23日(月) |
そんなにヴァギナがみたい? |
女にとってのペニス、男にとってのヴァギナというのは、確かに究極の「秘部」なのかもしれませんが、あまりにこだわる姿には、正直なところ閉口してしまいます。僕も決して嫌いではありませんけれど、「みたい」という衝動の根拠を考えると、どうにも理解に苦しむわけです。 モデルさん相手に個人撮影をしていると、撮影中に色々な世間話をします。多くは過去の撮影経験にまつわるものなのですが、「アソコばかり撮る人もいるんですよ」という話も珍しくはないんです。また、そんな撮影風景を友人に話すと、やはり多くは「俺だったらアソコばかり狙うけどな」とニタニタしながら言葉を返してきます。 正直に書きますけど、僕だって撮影中にヴァギナは拝見します。全裸になれば、角度によっては当然の如く視野に入ってきますし、開脚で股間から上を狙うような場合は、目の前にヴァギナが見事にあるわけです。目に入らないのが嘘になるでしょう。ただ、ソレを写しこむという意識は皆無です。こんなもの(という物言いも失礼でしょうけど)写してどこが面白いんだ、とすら思います。 僕にとってのモデルさんは、これまた失礼な物言いになりますが、ある意味で「モノ」なのだと感じることがあります。「絵」を僕のイメージで綺麗に仕上げるために、そこにある「モノ」にその存在感を主張してもらうわけです。ですから、考えようによってはヴァギナがそれを主張することもあるかもしれませんけれど、幸か不幸か、これまでそういう場面には出くわしませんでした。語弊なきように書き添えておきますが、モデルさんはもちろん生身の人間ですよ。血が通い動く心を持つ女性です。それは当然、撮影の際に念頭にあるべきものです……。 ヌード写真もさまざまで、僕が撮っている単体相手のもの以外にも、男と絡んでいる写真も当然のことながらあります。「絡み」とか「ハメ撮り」とかいいますけど、世にあるアダルトサイトの多くは、この系統であろうと思います。なぜ多いのか、なぜ男連中にうけるのか。いうまでもなく、それはその画面のなかに、自分自身を重ね合わせているからだと僕には思えます。 セックスをするとき、ヴァギナへのペニスの挿入なしに済ます男は、そうそういないでしょう。前戯のバリエーションやテクニックはさまざまあれど、最後は果てて終わるのがセックスであることに異論はなかろうと思います。もちろん、「手でいっちゃった」とか「口でいっちゃった」というものもあるにはありますが、毎度それで済ませているという人は少なかろうと想像します。 その理由は明瞭です。それは、セックスという性行為が、元来は種の存続を目的としていたからです。精子を卵巣へ送り込むことなしに、セックスは完結しないでしょう。あれこれ亜流はあるにせよ、最終目的はそこにあるわけです。ですから、男も女も、相手の「秘部」にこだわる心理は、とりたてて異常なわけでもないんです。ただそれは、「目的」があって「行為」に及ぶ男女があっての話ですから、今回の論旨からは少々離れてくるようにも思えます。 まだ十代の頃、友人といわゆる「成人映画」の門をくぐるのに、心臓が口から飛び出すほどにどきどきしながら足を運んだ覚えがあります。あれは何だったんでしょう。単純に「みたかった」と応えるには少々複雑な背景がありそうにも思えるのですが、僕はあえて「脳が刺激を欲していた」と解釈してみたいと思います。 女は想像で、男は視覚で感じるという話があります。レディコミが売れ、ビニ本が売れたのは、女が文字世界から己の官能を喚起し、男がモロ写真から男根を膨らませたということではなかろうかと僕は思うわけですが、哀しいことに男の「欲望処理の本能」は、そういう視覚的な入り口をそのままの形で成人に達するまで残してしまっているのかもしれません。もちろんそこには、隠さずに全てを見せてしまう風潮が(文化と呼ぶのはどうかと疑問が残りますが)、男の想像力を欠落させ、「究極の秘部」のみを燦然と輝く欲望の試金石の如く成り上げてしまったという結末もあるような気がします。 僕はことさら、見せないことを是であるなどとはいいません。見せるとか見せないとか、そういう視点が問題なのではなく、どこに女を感じるかという男の心理にこそ問題の根は隠されているのだと思えるんです。極端な言い方をすれば、ヴァギナをみなければ女を感じない男が、現代には溢れかえっているということです。それでいいのでしょうか。 僕自身の話に戻りますが、モデルさんを相手に撮影するときは、大抵は着衣状態から少しずつ脱がしていきます。そのときどきで、ファインダーを通してみえてくる「女」を僕は追い続けているようにも思えます。それはときにうなじであったり、ときに胸であったり、そして唇や指先であったりするわけです。 蛇足になるかもしれませんが、かつて某プロカメラマンに、「モデルといえども、それぞれに肉体的なコンプレックスを持っているから、それを上手にフォローしてあげるのも、撮る側の技量だと思うよ」といわれたことがあります。僕自身いつもそう心がけて撮っていますし、その通りだと思います。それは決して「偽り」を写しこむのではなく、そうすることで、そこに「女」を感じ表現できるからです。ヴァギナが写ってるかどうかなんて問題は、頭の片隅にもありはしません。 されど世の男連中は、こぞってヴァギナを追い求めてゆく……別に哀しみもしませんし、蔑みもしません。それはそれで、時代が写す男性像なのかもしれないからです。ただ僕には、そういう心理がものの見事に理解できるという脳みそがないということです。 つまらぬ言葉で締めくくりますが、ヴァギナは見るものではありません。愛しく味わうものです。違いますでしょうか……それとも、僕のほうが「変なヤツ」なのでしょうか。 ---- Information ------------------------------ 【Figure Vol.2-01,02 公開】 ・本日より新たなシリーズとなります。
|