山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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放射線治療9回目。
朝食の最中に大変なことが起こった。食べ物を飲み込もうとしたときに、ゲップが出そうになったのとむせるのとがけんかした。胸が空気を吸ってどっちつかずのまま横隔膜が収縮した。胸が急に広がろうとした。その瞬間、背中の手術した部分の付近に「ズキン」というか「ビキッ」というか衝撃と激痛が走った。そして全身にビリビリと電流が走った。
しばらく全身が硬直した。
詳細は不明だが、腹筋も背筋も弱っている上にしばらく強い収縮などしたことがなかったため、むせたときに大きな力が加わり筋肉がひきつるか、いわゆる筋が違えたようになったのではないかと思われる。
一瞬骨折か、あるいは肉離れかとも考えたが、動くと痛いもののじっとしていると痛みはない。ボルタレン錠25mgを服用し、ベッドに横になり様子を見る。10時過ぎに放射線治療のため一旦起き上がるが、痛みが強いため痛み止めの坐薬をして午後まで様子をみることになり、またベッドに。
目が覚めると車椅子の上に袋に入ったりんごが上がっていた。坂牛のりんごやさん山田さんに違いない。案の定、隣の患者さんが、「山田さんという人がおいていきましたよ」と知らせてくれた。銘柄は「つがる」。
食欲がないが昼食はなんとか半分は食べる。新鮮なりんごに救われる。
午後主治医の長谷川先生が様子をみにきた。そこで無理をしないようにいわれるが、放射線ぐらいは大丈夫だろうということで、ライナック室へ。今日は娘の付き添いで、なんとか無事終了する。
ライナックから戻ってすぐ、道路建設課の巻秀信班長が見舞ってくださる。今日は残っていた夏期休暇の消化だそうだ。巻さんの奥さんは、市民病院のMRIやバイオプシィの時に散々世話になった看護師の厚子さんである。6月の日記で登場するが、中学のときは本当に私のマドンナであった。
中学では私は卓球部に所属していた。私の中学校には卓球台は4台しかなく、部活のときは体育館の4隅に4台の卓球台を置いて、4つに分かれて練習をしたものだ。2台は女子、2台が男子。体育館のフロアは半分が男子バスケット部、残りの半分の女子バレーボール部が使用した。厚子さんは1学年先輩で、そのバレー部のキャプテンだった。
そんな体育館の使い方だったから、卓球台にはよくバスケットボールやバレーボールが飛んできた。バスケットのやつらは、時にはわざとこちらに向けてボールを投げてくるやつらもいた。時にはK井川という顧問が自ら嫌がらせのように卓球台の上からパスを出して、我々の練習を妨害することもあった。そんなだから生徒たちも似たような態度だった。当然のように卓球のボールはよく潰された。
あと半分の女子バレー部の対応はさすがに違った。バレーボールのほうが飛んでくる回数は多かったが、ボールがぶつかったら「ごめん」、「大丈夫?」さすが女の子たちである。ぶつけたら謝るのが当然である。そんな部員をリードしていたのが厚子さんだった。お互い明治中のダサいジャージではあったが、素敵な笑顔にあこがれたものだ。その笑顔が市民病院で再現された。暖かかった。
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