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2011年11月02日(水)
「お父さん、マンションへ引っ越しなさい」

『勝負哲学』(羽生善治・岡田武史共著/サンマーク出版)より。

(棋士・羽生善治さんと、前サッカー男子日本代表監督・岡田武史さん。いまの日本を代表する「勝負師」ふたりが、お互いの「勝負哲学」について語り合った本の一部です)

【羽生善治:たとえばスランプのときなどは、何でもいい、小さなことでいいから、何を変えてみるといいと思います。早起きをするとか、服装を変えるとか、新しい趣味を始めるとか。生活の中に、そんな小さな変化やメリハリをつけることで心の停滞が防げるところがあります。そうして精神の流動性が高まれば、メンタルコンディションも上向きになっていくはずです。

岡田武史:その気分転換が渡すが下手くそでしてね。コンサドーレ札幌の監督をやったとき、契約時にはJ1だったのが、就任時にはJ2に落ちていました。そんなのすぐに昇格させてやると思っていたのに、なかなかうまくいかなくて悩みました。
 北海道には単身赴任でホテル暮らしをしていたんですが、ホテルの部屋で試合のビデオなどを見ながら、ああでもない、こうでもないと打開策を考え続けます。それが仕事ですし、考えるのをやめたら監督は務まりませんから、食事をしている間も風呂に入っているときも、バカみたいに考え続けます。でも、考え続けているとやっぱり煮詰まってくるんです。
 そんなことを電話で家内にグチったら、「お父さん、マンションへ引っ越しなさい」といわれましてね。引っ越せば、自分で掃除したり、洗濯したり、ご飯をつくったりしなくちゃいけない。それが気分転換になるからというんです。引っ越したら、家内のいうとおりでした。つまり、精神の安定に重要なのは生活なんですよ。メンタルコントロールにはふつうの生活が何より大事なんです。

羽生:勝負とは無関係の日常生活が片方にきちんと担保されている、そのことが大切なんですね。たしかに盤上を離れて、ふつうの生活、ふつうの時間が流れている場所に身を置くとホッと安心します。

岡田:でしょう? 負けて歯ぎしりしながら家に帰ってきたら、おやじのそんな感情や思惑とはまったく関係ない、ふつうの人間の暮らしがそこに展開されている。それは苛立ちよりむしろ慰めや癒しのほうがはるかに大きいことです。
 自分にとってサッカーは生きるか死ぬかの、厳しい気の抜けない世界だが、他の人間にとってみたら、勝とうが負けようが別にどっちてもいいことだ。その事実の自覚は大切なことで、心をなごませてくれるシェルターにもなるし、自分の世界にのめり込みすぎないよう距離をとってくれる作用もあります。それがすなわち、効果的なメンタルコントロールにもつながるんじゃないでしょうか。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この岡田監督の話を読んで、「なるほどなあ」と感心してしまいました。
 人間、「自分にとって命がけ(とまでは言わなくても重要な)仕事をやるときって、とりあえず「日常のことは後回しにして、その仕事に集中しよう」と考えがちなものですよね。
 岡田監督を招聘した、コンサドーレ札幌のフロントも、日本代表監督の経験者だし、雑事にわずらわされずに監督としての仕事に集中してほしい、といことで、ホテルの部屋を提供していたはずです。

 でも、実際にそういう生活をしてみると、人間、かえって煮詰まってしまうというか、何か月間も一つのことに集中し続けるというのは、けっこう難しいことのようです。

 掃除や洗濯といった「日常的な家事」って、一人暮らしだと、どんなに忙しいときでも、定期的に「やらなければならない状態」になります。
 ところが、「だからこそ気分転換になる」のだという面もあるんですね。
 ホテル住まいで、気分転換に自分の部屋を掃除する人はなかなかいないでしょうし、精神的に追いつめられているときには、「必要な状況にならないと、やる気になれない」でしょうし。

 逆に、「試験勉強などで追いつめられているときに、むしょうに掃除や洗濯がしたくなる」っていうこともありますよね。
 原稿の締め切りに追われた筒井康隆さんは、編集者が宿泊しているホテルを訪れた際に「部屋の風呂を洗っていた」という伝説があります。

「精神の安定に重要なのは生活なんですよ。メンタルコントロールにはふつうの生活が何より大事なんです」

 僕も若い頃は、「何かに没頭するには、日常の雑事は邪魔だ」と考えていました。
 しかしながら、いまは、この岡田監督の話、とてもよくわかりますし、「マンションで生活して、日常を取り戻すこと」をアドバイスした監督の奥様の慧眼にも感服します。
 こういうのって、自分ではなかなか思いつかないことなんですよね。
 とくに、大きなプレッシャーにさらされているときには。