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2011年10月11日(火)
「やらせ」と「演出」は違います。

『伊藤Pのモヤモヤ仕事術』(伊藤隆行著・集英社新書)より。

【それからADの修業期間を経て数年後。僕は『愛の貧乏脱出大作戦』というみのもんたさん司会の番組でディレクターデビューしました。先日、10年前の映像を見る機会があったのですが、これが改めてすごかった。
 仕事がうまくいかないストレスから、息子に手を上げようとする父親がいます。そんなダメな亭主に、奥さんはイライラしている。そして奥さんはにっちもさっちもいかなくなった状況で、「ここにハンコ押して!」と離婚届をたたきつけます。憮然としながらハンコを押そうとする亭主――。
 もう面白そうでしょう? そして殴ろうとする瞬間、離婚届に判を押す瞬間、どこにも当り前のようにカメラが回っているんです。
「ヤラセじゃないか!?」と思う人がいるかもしれませんが、別に脚本を演じてもらっているわけではありません。れっきとしたドキュメンタリーです。

 しかしなぜこんな決定的瞬間を撮影できたかというと、そのタイミングを想定してカメラがいるんです。ただそれだけ。ディレクターは、取材対象者と何日も一緒に過ごして、距離を密にします。そうすると、だんだん相手の良いところも悪いところも見えてくる。つまり、人間関係が生まれる。やがて、その存在すら空気となる。つまり、カメラをかなり気にしなくなる。そして、事件は普通に起きます。この場合、人間関係を作ることそのものが演出なのです。簡単に書いちゃいましたが、これは、難しいです。
 また『貧乏』ではダメな亭主がその道の達人から技術を学び、しくじるシーンも見せ場でした。その画を手に入れるため、ディレクターは亭主とずっと一緒にいます。修業中、亭主が眠くなって、うとうとしだすと、「寝たらダメです」と声をかけて眠らせません。
「少し寝かせてください」
「何言ってるんですか? すぐそこに達人がいるんですよ。失礼じゃないですか」
 そうするとどうなるか? 亭主は「眠い。もう帰りたい」とボヤきだします。

 亭主はもともと、番組の主旨に賛同して参加したはずです。「どんなことがあっても、最後までやり抜きます」と強い意志を持って。しかし三日後、そこにある感情は「いい加減にしてくれ!」になっています。「どんなことがあっても……」は嘘と化します。これがその人の一面……。
 結果、達人が教えている最中に、ぶっきらぼうな態度を取ったり、失礼なことをする。「ちゃんとしろ!」と怒る達人――そこにカメラは回っているのです。

「そこまで踏み込むなんて、おまえらは何様だ」と思うでしょうか。
 でも、これは番組という名のもとに成り立つ、演出の範疇だと思います。『貧乏』は、ギリギリの地獄から人間同士がぶつかり、壁を乗り越え、泣き、新たな未来へ強い意志を見出す。そして再出発を果たすまでの修行という名の荒行が番組の内容となっているのです。その名のもとに許される演出は数多くあります。その人のいいところ、いやなところを見せるためのギリギリの演出。その上で、間違いのない真実を映す。どんな人間も化けの皮が剥がれるのに三日かかるのならば、その限界を破らなければいけません。ここから、ドキュメンタリーという名のドラマが始まるのです。「眠気」すら突破できないで、何が「人生再出発」ですか? と。これこそ、番組 vs 亭主のギリギリの勝負。目には見えない演出です。

 そして何故、こうしたドキュメントバラエティが面白く感じるかというと、現場のディレクターが「やばいぞ。出演者が怒って番組にならないんじゃないか?」とハラハラしながら作っているからです。テレビマンとして勝負しているんです。作り手の感情は視聴者に伝わります。作り手がドキドキしない番組は、視聴者もドキドキしないですから。
「やらせ」と「演出」は違います。やらせとは本当はそんなことが起きていないにもかかわらず、嘘をつくこと。これは露骨すぎた場合、真実を曲げてしまうために往々にして支障をきたします。それに対して演出は、真実をショーアップして面白く見せることです。
 それはテレビが持つ、そもそもの機能。だから視聴者は楽しんできました。】

〜〜〜〜〜〜〜

 テレビ東京・伊藤隆行プロデューサーの著書の一部です。
 『伊藤P』こと伊藤プロデューサーは、『モヤモヤさまぁ〜ず2』『やりすぎコージー』などの人気番組を手がけている、テレビ東京のバラエティ番組の屋台骨を支える存在。
 
 ちなみにこの新書のなかで、伊藤プロデューサーは、「バラエティのように演出を施して良いジャンルと、ニュースのように演出をくわえてはいけないジャンルがある」と言及されていることも付け加えておきます。

 僕も、「ドキュメントバラエティ」はけっこう好きで、『愛の貧乏脱出大作戦』もよく観ていました。
 あれが「完全なドキュメンタリー」ではないことはわかってはいたのですが、このように制作側から「事実」を語られると、なんとなく興醒めしてしまうんですよね。
 実際は、「達人のワザを3日で教えてもらう」なんていう企画そのものが「ズル」ではありますし、「テレビカメラがその場にいる」ということが、すでに応募者をはじめとする周囲の人たちに影響を与えているのも間違いないでしょう。
 やっぱり、カメラが回っていると思うと、ダメ人間でも多かれ少なかれ「がんばってしまう」ものでしょうし、達人も、あまりに酷い仕打ちはできないだろうし。

 とはいえ、どこまでが「やらせ」で、どこからが「演出」として許されるのか、というのは、とても難しい問題です。
 「100%のやらせではない」ことに安堵しつつも、テレビ局のスタッフが、「寝たらダメです」と介入するのは、「演出」の範疇なのだろうか?と疑問にも感じます。
 もちろん、そうやって参加者を刺激しないと、番組として面白くできないのは事実でしょう。
 あの番組だって、「すばらしい人格を持つ参加者が、何のトラブルもなく、修行を完遂する」のであれば、視聴者にとっては、たぶん「面白くない」。
 たまにはそういう回があっても許されるのかもしれませんが、基本は、「ダメな人のダメっぷりを観る番組」なのです。

 でも、『めちゃイケ』とか『ロンドンハーツ』のような、芸能人が出てくるバラエティ番組であれば、「あれは『演出』です」と言われても、まあそうだろうな、とみんな思うだろうけど、素人が出演している「ドキュメントバラエティ」の場合は、「ドキュメンタリーだと信じている」人も、けっして少なくないはずです。
 そもそも、「ドキュメントバラエティ」って、それがある程度は「事実」だと信じていないと、楽しめない番組ですしね。

 そういう視聴者にとっては、スタッフによる介入は、小さなものでも「やらせ」と感じられる可能性もあるはず。
 
 「『やらせ』と『演出』は違います」
 テレビマンにとっては、そうなんだと思います。
 でも、観ている側にとっては、行き過ぎた「演出」は、「やらせ」と大きな違いはないようにも感じます。
 
 ただ、そういう「演出」を一切排除した「ドキュメンタリー」だけでは、「面白くない」のも事実で、制作側にとっての「演出」も「やらせ」だと一部の視聴者に責められるようになってから、テレビがつまらなくなった、というのも、一面の真実ではあるんですよね。
 カメラがその場に入っている時点で、「平常心」ではいられないのは、間違いないのだし。