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2011年07月12日(火)
「人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている」

『大人の流儀』(伊集院静著・講談社)より。

【それから二十五年後の秋の夕暮れ、私は病院で前妻を二百日あまり看病した後、その日の正午死別していた。家族は号泣し、担当医、看護師たちは沈黙し、若かった私は混乱し、伴侶の死を実感できずにいた。
 夕刻、私は彼女の実家に一度戻らなくてはならなかった。
 信濃町の病院の周りにはマスコミがたむろしていた。彼等は私の姿を見つけたが、まだ死も知らないようだった。彼らは私に直接声をかけなかった。それまで何度か私は彼等に声を荒げていたし、手を上げそうにもなっていた。
 私は表通りに出てタクシーを拾おうとした。夕刻で空車がなかなかこなかった。
 ようやく四谷方面から空車が来た。
 私は大声を上げて車をとめた。
 その時、私は自分の少し四谷寄りに母と少年がタクシーを待っていたのに気付いた。
 タクシーは身体も声も大きな私の前で停車した。二人と視線が合った。
 私も急いでいたが、少年の目を見た時に何とはなしに、二人を手招き、
「どうぞ、気付かなかった。すみません」
と頭と下げた。
 二人はタクシーに近づき、母親が頭を下げた。そうして学生服にランドセルの少年が丁寧に帽子を取り私に頭を下げて、
「ありがとうございます」
 と目をしばたたかせて言った。
 私は救われたような気持ちになった。
 いましがた私に礼を言った少年の澄んだ声と瞳にはまぶしい未来があるのだと思った。

 あの少年は無事に生きていればすでに大人になっていよう。母親は彼の孫を抱いているかもしれない。
 私がこの話を書いたのは、自分が善行をしたことを言いたかったのではない。善行などというものはつまらぬものだ。ましてや当人が敢えてそうしたのなら鼻持ちならないものだ。
 あの時、私は何とはなしに母と少年が急いでいたように思ったのだ、そう感じたのだからまずそうだろう。電車の駅はすぐそばにあったのだから……。父親との待ち合わせか、家に待つ人に早く報告しなくてはならぬことがあったのか、その事情はわからない。
 あの母子も、私が急いでいた事情を知るよしもない。ただ私の気持ちのどこかに――もう死んでしまった人の出来事だ、今さら急いでも仕方あるまい……。
 という感情が働いたのかもしれない。
 しかしそれも動転していたから正確な感情は思い出せない。
 あの時の立場が逆で、私が少年であったら、やつれた男の事情など一生わからぬまま、いや、記憶にとめぬ遭遇でしかないのである。それが世間のすれ違いであり、他人の事情だということを私は後になって学んだ。
 人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 伊集院静さんの「前妻」は、女優の夏目雅子さん。
 僕はこの文章を読みながら、この伊集院さんにタクシーを譲られた側の少年は、この日のことを覚えているだろうか?と考えてしまいました。
 たぶん、覚えていないんじゃないかな。
 それは、この少年が薄情というわけじゃなくて、僕がこの少年だったとしても、「知らないおじさんにタクシーを譲ってもらった」くらいのことを、ずっと覚えてはいないと思います。

 ふだんの生活のなかで、「他人の事情」を想像することは難しい。
 どうしても、相手の行動は、その人の「性格」によるものだと考えてしまいます。
 たとえば、高速道路で、猛スピードで煽ってくる車。
 僕はああいう車を見ると、「迷惑運転しやがって!そのうち酷い目に遭うに決まってるからな!」などと心の中で呪いをかけているのですが、もしかしたら、あの人がああいう運転をしているのは、母親の死に目に会うために、急いで病院に向かっているから、なのかもしれません。
 まあ、だからといって、他人に迷惑をかけるような運転をするのは良いことではありませんが、自分がそういう立場だったら、そうせずにはいられないのかもしれません。
 
 本当に「他人の事情というのは、わからない」のです。
 もちろん、周囲の人々に対して、説明もせずに、こちらの特別な事情を理解してくれというのは、ムシがいい話ではあります。
 それこそ、「人はそれぞれ事情をかかえている」のだから。

 このときの伊集院さんのように、自分が「特別な事情」をかかえていたからこそ、「人それぞれの事情」について、考えることができる場合もある。
 どんなときでも、自分に「事情」があるように、周囲の人にもそれぞれの「事情」があるのだけれど、相手の「事情」を想像することは少ないし、あまりに想像力を持ちすぎていては、生きていくのが大変になるのも事実なのでしょう。

 でも、この伊集院さんの文章には、何かとても大事なことが書かれているように、僕には思われるのです。
 人が「平然と生きている」ことって、実は、すごく大変なことなんだよなあ。