初日 最新 目次 MAIL HOME


活字中毒R。
じっぽ
MAIL
HOME

My追加

2011年07月05日(火)
「思いのほか広かった」では、読者に伝わらない!

『文は一行目から書かなくていい』(藤原智美著・プレジデント社)より。

(芥川賞作家・藤原智美さんが「検索・コピペ時代の文章術」を書かれた本の一部です)

【二十四歳のころ、クルマ雑誌でユーザーレビューを書いていた時期がありました。いまだから明かせますが、私はクルマという乗り物に興味がありませんでしたし、マイカーすらないペーパードライバーで、その仕事にまったく自信がもてませんでした。それでも引き受けたのは、いうまでもなく、かけだしの貧乏ライターで、仕事など選べなかったからです。
 その雑誌で、あるクルマの運転席について「思いのほか広かった」と書いた原稿を編集者に見せたところ、「これではどの程度の広さなのかが読者に伝わらないよ。安易に形容詞を使っちゃダメだ」と厳しい指導を受けました。
 広い、熱い、きれい、おいしい、すごい……。
 私たちは会話で使っている形容詞を、深く考えることなく文章にも用います。しかし、ある人が「広い部屋」といったときに思い浮かべている広さと、それを聞いた人が想像する部屋の広さにはギャップがあります。
 そのギャップを埋める工夫をせず、形容詞を投げつけるだけでは、読み手に不親切です。私が書いた「思いのほか広かった」は、まさしく読み手無視の独りよがりな表現でした。そのままレポートを掲載していたら、読者は実際のクルマの広さがまったくイメージできなかったでしょう。
 では、形容詞を使わずにどのように表現すればいいのでしょうか。
 ユーザーレポートにダメ出しした編集者は、「ユーザーの身長を書いたらどうか」とアドバイスをくれました。たしかにユーザーの背丈は166センチという情報を加えて、「身長166センチの試乗者は、運転席から後部座席をスムーズに振り返ることができた」と表現すれば、「広い」という形容詞は不要になります。
 ポイントは自分一人の主観ではなく、多くの人と共有できる客観的な物差しを使うことでしょう。たとえば「14インチのモニターが2つ置ける広さだった」「新型新幹線と同じくらい速い」というように身近にあるものに置きかえてみます。
 身近なものに置きかえるといっても、「東京ドーム○杯分の大きさ」のように手垢のついた置きかえは避けたほうがよいでしょう。わかりやすいという利点はありますが、ありきたりすぎて読み手の記憶に残りにくい。わかりやすさと同時にインパクトのある表現を、自分なりにいくつか用意しておくことをおすすめします。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これは本当に勉強になりました。
 「広い」とか「きれい」とか「すごい」のような形容詞、僕もあまり意識せずに使ってしまいがちなので。

 たとえば、テレビのグルメ番組のように、映像があったり、レポーターに対する予備知識があれば、「おいしい!」のひと言だけでも「伝わる」こともあると思います。
 でも、雑誌やブログなどの「文章だけで伝えなければならず、どんな人が書いているのかわからない場合」はとくに、形容詞というのは、「伝わりにくい言葉」になってしまうのです。
 もちろん、長い間、ひとりの文章を読み続けていれば、ある程度の「好み」は把握できるのでしょうけど、そういう暗黙の了解に頼っていたら、新しく来る人への間口はどんどん狭くなってしまいます。

 この「思いのほか広かった」という表現なんて、まったく意識せずに、サラッと書いてしまいそうなだけに怖い。
 若いころの「未来の芥川賞作家」ですら、そうだったのです。
 「(自分にとって)思いのほか広い」と感じ、それをそのまま書いてしまうのは、自然なことです。
 しかしながら、それだと、「ひとりよがり」になってしまう。
 166センチの人にとっては「思いのほか広い」空間も、2メートルある人にとっては、「狭い」のが当たり前。
 形容詞というのは、あくまでも主観的なものなのです。

 たしかに、「身長166センチの試乗者は、運転席から後部座席をスムーズに振り返ることができた」だと、読んだ人は、自分の身長にあわせて、この情報を補正できますし、具体的な「広さ」が、読んだだけで伝わります。
 
 それにしても、「定型文」のようなクルマ雑誌の「試乗車レビュー」でも、ここまでの配慮がなされているんですね。
 文章でお金をもらうというのは、簡単なことではないようです。


 その一方で、「形容詞の曖昧さ」というのは、必ずしも悪い面だけではありません。
 先日、ある作家が、「本の魅力というのは、読み手が自由に解釈できるところだ」ということを書いておられたのを読みました。
 「この世のものとは思えない、美しい女性」という言葉に対して、読み手が思い浮かべる女性の姿は、ひとりひとり異なるはずです。
 でも、自分が思い浮かべた想像上の女性に対して、「これは違う!」と思う人はいません。
 もしこれを映像化して、その女性をひとりの女優さんが演じるとすれば、どんなに美しい人をキャスティングしても、「これは自分のイメージとは違う!」と感じる人がいるはずです。
 むしろ、「イメージどおり」の人のほうが少ないくらいでしょう。

 あまりにも「読み手の想像力に頼り切ってしまうような小説」を読まされると「金返せ!」という気分にもなるんですけどね。
 想像力をはたらかせるには、イメージを膨らませたくなるような「魅力的な世界」が必要だから。