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2011年02月10日(木)
「駆けっこ競走で転んだ子どもを気づかう子どもと、ひたすらゴールを目指す子ども、いったいどちらが正しいのか?」

『生きるチカラ』(植島啓司著・集英社新書)より。

【こうした社会では、どんどん価値観が壊されていく。たとえば、公園で見知らぬ人に道を聞かれて、教える子ども、逃げる子ども、どちらが正しいのかと聞かれても、すぐには答えられなくなっている。学校では、知らない人には親切にしてあげなさいと教えられるのに、家庭では、知らない人に声をかけられたら気をつけなさいと教えられる。子どもでなくてもどうしていいのかわからない。ひろさちや『「狂い」のすすめ』(2007年)にもあったと思うのだが、駆けっこ競走で転んだ子どもを気づかう子どもと、ひたすらゴールを目指す子ども、いったいどちらが正しいのか。転んだ子どもは気の毒だけど自己責任だからといって、自分の子どもにはひたすらゴールを目指すように教える親のほうが、いまや多いにちがいない。まだ駆けっこ競走だからいいけれど、もし入試の朝に一緒に学校に向かっていた友人の具合が悪くなったりしたら、いったいどうしたらいいのか。時間は迫るけれど、友人を見捨てることもできない。こういう場合、あなたは子どもたちにどのようなアドバイスができるだろうか。】

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 この冒頭の「こうした社会」は、「少しの可能性のリスクにも過敏になっている、潔癖な社会」というような内容です。
 ここで植島先生が書かれていることは、僕も子どもの頃、疑問に感じていたし、自分が大人になってみると、「こういう矛盾したことを、子どもにどんなふうに伝えたら良いのだろう?」と悩んでしまいます。
 少なくとも僕が子どもの頃から現在までの40年近くのあいだ、日本の大人たちは、この矛盾を明確に解決することはできていないし、社会がどんどん「潔癖に」なっていくにつれて、「学校では、知らない人には親切にしてあげなさいと教えられるのに、家庭では、知らない人に声をかけられたら気をつけなさいと教えられる」機会は増えていっているのです。

 教科書には「人を見れば泥棒と思え」とは書けないし、人間の理想としては「困っている人は助けてあげる」べきなのだけれども、そういう「無防備な親切心」が危険な場合もあることを僕たちは知っています。
 「変質者にいたずらされる危険性」と「道がわからなくて困っている人を助けようという心を育てるメリット」のどちらをとるべきか?
 子どもの場合は「相手を見て、ケースバイケースで判断するように」というわけにはいかないでしょうし……

 僕が子どもの頃は、「知らない人についていってはいけないけれど、困っている人には親切にするんだよ」というのが「一般的な大人のスタンス」だった記憶があります。
 でも、いまの世の中には、「さらわれたり、いたずらされたりする可能性があるから、とにかく、知らない人には近づかないように」と教える大人が多いはず。

 僕はどうかなあ……これを読みながら考えてみたのですが、やはり、子どもが「ひとり歩き」できる年齢になれば、「知らない人には近づかないように」「ひとりにならないように」と伝えるのではないかと思います。
 そうしないと、万が一のときには、自分がどんに後悔しても、取り返しがつかないだろうから。

 その一方で、そういうリスクを避けるために、子どもの「思いやりを育てる機会」を失ってしまうのではないか、という懸念もあるのです。

【もし入試の朝に一緒に学校に向かっていた友人の具合が悪くなったりしたら、いったいどうしたらいいのか。時間は迫るけれど、友人を見捨てることもできない。こういう場合、あなたは子どもたちにどのようなアドバイスができるだろうか。】

 僕は、そういうときには、自分の子どもが、友人のために試験を犠牲にするような人間になってほしい、と思っているのです。
 しかしながら、山で遭難して、「友人がつかまっているザイルを切らなければ、自分も一緒に落ちて死んでしまう」というときには、やっぱり、そのザイルを切って、生き延びてほしい。

 ほんと、大人になっても、いや、大人になればなるほど、世の中、白黒つけられないことばかりですね。