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2009年12月27日(日)
三谷幸喜さんが語る「向田邦子さんのシナリオの凄さ」

『三谷幸喜のありふれた生活8 復活の日』(三谷幸喜著・朝日新聞出版)より。

(「特別な大先輩、向田さん」という項より)

【「阿修羅のごとく」という連続ドラマは、僕からすれば、神様が書いたシナリオである。どの登場人物も、言っていることと思っていることが違う。僕の理想。なぜなら彼らは普段、そうやって生きているから。言葉と思いとは必ずしも一致しないのである。自分もそんな台詞を書きたいといつも思っているのだが、なかなかうまくいかない。
「阿修羅のごとく」で向田さんは、辛辣なまでに人間の二面性をあぶり出す。一見平穏に見える家族たちが、裏ではかなりどろどろの駆け引きを展開する。
 何が凄いかって、僕レベルの脚本家は、それぞれのキャラクターの個性を表す時に、どうしても台詞に頼ってしまう。その人がどんな喋り方をするかで、個性を出そうとする。よく喋る人、無口な人、まわりくどい言い回しを好む人、等々。実際は、そこまで単純ではないのだけれど、まあ、そんな感じ。だからどうしても台詞が多くなる。
 向田さんは違う。台詞量はむしろ少ない。その代わり、行動でキャラを表現する。
 例えば「阿修羅のごとく」の冒頭。いしだあゆみさん演じる三女滝子は、あまり他者と交わらない内向的な女性。彼女のキャラが強烈に伝わるシーンがある。
 八千草薫さん扮する姉巻子のところに滝子から電話が掛かって来る。巻子はちょっと抜けたところがあって、途中でそばにいた家族と話し込んで、妹のことを忘れてしまう。だいぶ経ってから夫に言われて思い出し、再び受話器を手に取る。そこで画面が切り替わり、滝子が映し出される。彼女は公衆電話に小銭を入れながらひたすら待っていた。
 ここが凄い。電話を忘れてしまう姉のキャラもいいけど、じっと待っている妹(それもかなり長時間)の怖さ。しかも待っている間、淡々と十円玉を入れ続けていた風なのだ。この瞬間だけで、彼女の、なんだかジトッとした個性が浮き上がって来る。簡単なように思えるかもしれないけど、今の僕には到底思いつけない設定だ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕も向田邦子さんのエッセイは、高校の図書館で見つけて以来、ほとんどすべて読みました。
 しかしながら、向田さんの脚本や、その脚本をもとにつくられたドラマは、ほとんど観たことがないんですよね。当時は「ドラマの再放送」というのが今ほど多くはなかったですし(何度も繰り返されているものもありましたが)、そもそも、10代後半から20歳代くらいの僕は「ホームドラマ」というものにあまり興味を持てませんでした。
 大学1年生のときに『東京ラブストーリー』が放送された「トレンディドラマ直撃世代」ですし。

 この三谷さんのエッセイを読んで、「もし僕が、何の予備知識もないまま、この『阿修羅のごとく』の冒頭のシーンを観たとしたら、その凄さを感じることができただろうか?」と思いました。
 たぶん、リアルタイムで観ても、そんな「特別な印象」は受けなかったんじゃないかなあ。残念ながら。
 でも、この場面の凄さというのは、観ている人がとくに引っかかりを感じないまま、「滝子」がどんな人物なのかを理解させてしまうところにあるのです。
 最近のドラマでも、作品の冒頭では、『阿修羅のごとく』でいえば、滝子自身に「なんで私って、こんなに優柔不断なんだろう……」と悩ませたり、巻子に「滝子はハッキリしない子だから……」みたいな説明的な台詞を言わせたりしているものが、けっこう多いのではないかなあ。
 そしてこの「公衆電話に十円玉を入れ続けている女」というのは、具体的な事例としては、誰にでも想像できて、そのうえ、すごく説得力がある「キャラクター説明」ですよね。今の携帯電話全盛時代では、伝わらないかもしれませんけど。

 それにしても、こういう場面に「凄さ」を感じることができるのは、やぱり、同じ脚本家としての三谷幸喜さんの凄さでもあるのでしょうね。
 「普通の人」の描写に説得力を持たせるのは、「スーパーマンが主役のドラマ」よりもはるかに難しい面があります。
 視聴者は、天才外科医の気持ちはわからなくても、ホームドラマの登場人物の心情は想像しやすいはず。
 そう考えてみると、たしかに「簡単そうに見えるけど、実際にこれを書ける人は、ほとんどいない」のではないかと思います。
 向田邦子さんは、やっぱり凄い。