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2009年09月19日(土)
カーネル・サンダースの「最後の挑戦」


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『名言の正体―大人のやり直し偉人伝』 (山口智司著・学研新書)より。

(ケンタッキー・フライド・チキンの創設者である、カーネル・サンダースの生涯)

【白髪に白ヒゲ、さらに白いスーツを身に着けて、優しい笑みを浮かべるカーネルおじさんの人生は、その温和な雰囲気とは裏腹に、実に波乱万丈なものだった。
 農場、鉄道会社、弁護士、保険外交員、秘書、ランプの製造販売、タイヤのセールスマン……などなど、カーネルは正義感が強く、融通のきかない性格だったため、上司と対立しては退職、転職を繰り返した。
 しかし、会社員生活はどうしても長続きせず、29歳でガソリンスタンドを開業。その附属施設としてカフェを開業し、飲食店を手がけることになるのだが、カーネルは店を3度も倒産させている。
 1回目の倒産は1929年。世界大恐慌のあおりを受けて、40歳を目前にいったんガソリンスタンドを手放すことになる。
 2回目は不慮の火事で、早朝に駆けつけると店は全焼していた。カーネルが50歳に近いときの悲劇だった。
 3回目はハイウェイ建設である。1950年代のアメリカでは、国を挙げて道路の近代化が進められたが、それによって一般道にあったカーネルのレストランは客が激減。味のよさが評判を呼び大繁盛していたレストランが、一転して経営難に陥った。
 65歳にして店を手放すことになったカーネルは、財産も店も何もかも失った。そのうえ、年金の支給額が想定していたものよりも少ないことが判明する。お先真っ暗とは、まさにこのようなことを言うのだろう。
 妻と2人で途方に暮れたカーネルだったが、ここで細々と人生を過ごす選択肢をとれば、世界的な成功などなく終わっただろう。カーネルは、最後にいちばん自分が自信を持つところで勝負しよう、と決断した。
 それはレストランのメニューの一つだったフライド・チキンである。その作り方をレストランに教え、そのチキンが売れるたびに、一部をロイヤリティとしてもらうというビジネスをカーネルは思いついた。つまり、今でいうフランチャイズ契約である。
 もちろん初めは、どこのレストランにもまったく相手にされず、門前払いの日が続いた。いきなり老人が訪ねてきて、「レシピを教えるのでロイヤリティをくれ」と言っても、聞いてもらえないのは当たり前だろう。
 カーネルは車中泊を繰り返し、お金が尽きると、見本のフライド・チキンを食べてしのぐ生活を送った。そうしてカーネルが老体に鞭打って、飛び込み営業をかけたレストランは1000軒以上にも上ったという。営業を繰り返すうちに、客が少なく暇な時間帯なら話を聞いてもらいやすいこと、従業員の賄いとしてならフライド・チキンをその場ですぐに試食してもらえることなどを学習した。
 こうした努力が身を結び、カーネルの挑戦から40年が経った1996年には、ケンタッキー・フライド・チキンは世界80ヵ国に1万店舗を構えるまでの世界的企業へと成長を遂げる。カーネルは80歳を越えても世界を飛び回って各店舗をチェックし、ルールが守られていない店では、カウンターをステッキで叩きながら指導した。
 ルールを忠実に守る日本人のまじめさを、カーネルはこよなく愛したという。60歳のときのカーネルをモデルにた等身大の人形を店頭に置いたのも、日本人によるアイデアだった。80歳のカーネルは、日本に来たとき、自分の人形に話しかけた。
「おまえは、年をとらなくていいな。いつまでも60歳のままで、ケンタッキー・フライド・チキンの店に来るお客を迎えることができる」
 カーネルは、90歳でこの世を去り、いつも着ていた白いスーツ姿で棺に納められた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 【農場、鉄道会社、弁護士、保険外交員、秘書、ランプの製造販売、タイヤのセールスマン……などなど】という部分を読んで、ずいぶんイメージとは違う、あわただしい人生を送っていた人なんだな……と僕は思ったのですが、これはまだ、カーネル・サンダースが「29歳までの話」みたいです。
 その後も3度の倒産を経たカーネル・サンダースが、「ケンタッキー・フライド・チキン」の元となる事業をはじめたのは、なんと65歳のとき。この事業欲には頭が下がるというか、信じられないというか……
 65歳といえば、普通なら、リタイアを意識せざるをえない年齢のはず。しかしながら、カーネルは諦めなかった。いや、諦めないどころか、「飛び込み営業」で「ケンタッキー・フライド・チキン」のフランチャイズを増やそうとしていったのです。
 「飛び込み営業」って、肉体的にも精神的にも、かなり辛い仕事のはず(僕はやったことないので、想像しかできませんが)。冷たくあしらわれることがほとんどでしょうし、当時、まったく無名だったカーネルおじさんに「商品そのものじゃなくて、レシピを買ってくれ」なんて言われても、「何それ?」という反応のほうが自然でしょう。
 そんななかで、失敗にもめげずに「話を聞いてもらうコツ」から積み上げていったカーネル・サンダースの執念は凄い。
 まあ、こうしてカーネルおじさんの前半生を知ってみると、むしろ、年を重ねて「枯れた」分だけ周りの人にとっては付き合いやすい人になったのかもしれないな、とは思うのですけど。

 65歳でスタートして、「ケンタッキー・フライド・チキン」を世界中に広めたカーネル・サンダース。この話を読むと、「僕ももう年だから、新しいことをやるのは難しいな」なんて考えてしまうのが恥ずかしく感じます。
 80歳を過ぎてまで世界中を飛び回り、ひとつひとつの店をチェックしていくような人生も、僕にはちょっときつそうではありますが。

 ところで、あの「カーネル人形」を考案したのって、日本人だったんですね。天国のカーネル・サンダースは、自分の人形が日本で酔っ払いにいたずら書きされたり、川に投げ込まれたりするとは、思ってもみなかっただろうなあ。