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2009年06月29日(月)
西原理恵子「だから出てくる子どもは全部、私です」

『ダ・ヴィンチ』2009年7月号(メディアファクトリー)の特集記事「ニッポンのオカン、西原理恵子スペシャル」より。

(西原さんが自らのルーツ、高知県の浦戸を再訪して。「」内は西原さんの発言です)

【西原さんは浦戸で6歳まで育った。

「母親が離婚して出戻ってきた時、私はまだ母親のお腹の中にいたんです。母親は三人姉妹の真ん中で、生活に追われてやらなくなっちゃったけれど、若い頃は絵も描いたし、植物だって私よりずっと詳しい。昔は結構モテたみたいよ。そこで漁師のおっちゃんと再婚しとけばよかったのに、自分はまだイケてるって思っちゃうんだよね、女って(笑)。再婚して引っ越したら、お父さんには恋人も別にいて、しかもその恋人がブスらしいって、怒ること怒ること!」

 西原さん、それって『いけちゃんとぼく』みたい。『ゆんぼくん』に『ぼくんち』、サイバラ漫画には『サザエさん』の家族みたいな家は出てこない。

「それが普通だと思うの。絵に描いたような幸せ家族なんてどこにもいないんじゃないかな。うちも最初は父親いなかったし、次の父親も出かけると1週間くらい平気で帰って来なかったりして、なんか、みんな、いなくなっちゃうなあって。でも人間って欠損があれば、それを埋めるために何かするよね。家に人が居つかない家庭で育ったから、それをどうやって埋めたらいいのかっていうんで、物語をつくることがうまくなったのかもしれない。だから出てくる子どもは全部、私です。情けなかったり、いじけてたりするのは全部。私の漫画は願いごとなんです。あの時誰も助けてくれなかったけど、本当はこういうふうに言ってほしかったっていう」

 だとしたら、いけちゃ〜ん。君は、そんな西原さんの願いごとのかたまりなのかもしれないね。いつでも、どんな時でも、<ぼく>のそばにいてくれる。

「だってさあ、いじめっ子に立ち向かっていける子なんていないよ。自分のこと振り返ったって、そんな立派じゃなかったよね? 物語って立派すぎない? あれがキライ。ウソつけって言うの! 振り返ると思い出すのはダメな自分、情けない自分ばっかりで。でもきれいな服着て、いいとこだけ見せようとするのって、私はカッコ悪いって思うから。漫画でもこの人の表も裏も全部見てってちょうだいって思って描いてきたんですよ」

 さびしかった、かなしかった、あの時何もしてあげられなかった、そんな思いをいっぱい抱えて、人は大人になるから。

「後悔ってすごく大きいものだよね。拾った子猫を死なせてしまったことをいつまでも覚えてる。忘れない。それは、かなしかったこともやっぱり大事な思い出だからでしょう?」

 ロケ地になった廃工場のある野原に行ったら、今度は子猫がいた。まるで『女の子ものがたり』のワンシーンみたいだ。もちろんこれも仕込みではありません、念のため。高知県には「アンパンマンミュージアム」があるけど(やなせたかし氏も高知県出身)、浦戸は天然の西原ミュージアムみたいだった。

「20年前からちっとも変わってないしね(笑)。やなせ先生が言ってたの、”人間何がつらいって、お腹すいてるのが一番つらい。それなのに、世界中のヒーローは飢えを救っていません。だから僕は『アンパンマン』なんですよ”って。やなせ先生って南方戦線の生き残りで、周りはみんな飢え死にしていったんだって。戦争から帰ってきた人だから私とは言葉の重みが違うけど、そういうのを聞くと似てるのかな、発想がって。強いスーパーヒーローなんているわけがない。そんなのウソだ。そういう無力さみたいなものを知ってますよね、やなせ先生も」】

〜〜〜〜〜〜〜

 これを読んで、僕も子どもの頃は、「なんでうちはもっと『立派な家族』じゃないんだろう?」と、ずっと思っていたのを思い出しました。
 いまから考えると、いろんな問題を抱えながらも、両親はすごく頑張って「家族」を維持しようとしていたんですけどね。
 大人になってみると、ほとんどの人が、「なんらかの家族の問題」を抱えて、子どもの頃に「なんでウチは……」と悩んでいたことがあったようです。
 昔は「自分以外の家は、みんな『サザエさん』みたいな平和な家族なのではないか」と思っていたけれど、実際は、あんな家族は、少なくとも僕が生きてきた1970年代以降には、どこにもない。
 まあ、だからこそ、『サザエさん』は、「あるべき家族の姿」として、ずっと生き続けていられるのかもしれませんが。

 そういう「子どもの頃の不安や不満」を、大部分の人は大人になると、いつのまにか忘れてしまうのだけれども、それを生々しく表現できるというのが、西原さんの凄さなのかもしれませんね。
「だってさあ、いじめっ子に立ち向かっていける子なんていないよ」
 確かにそうでした。僕も「いじめっ子と戦う自分」を夢想してはいたけれど、それを実行する勇気はないのに、そんなカッコいい自分を想像するだけだということに、さらに落ち込んでいたのです。
「さようなら、ドラえもん」で、去っていくドラえもんに心配をかけまいと、ジャイアンにボロボロになりながら勝ったのび太には、当時も感動して涙が止まりませんでしたが、正直、「ドラえもんが未来に帰ってしまうような事態」にでもならないかぎり、僕もいじめっ子に立ち向かうことはできないだろうなあ、とも感じていました。

 西原さんの漫画には、けっして楽しいことや立派なことばかりが描いてあるわけでもないのに、読むと少し心が軽くなるのは、「ああ、僕だけじゃなかったんだな」と、当時の僕を許すことができるから、なのかもしれません。後悔していることは、たくさんあるけれど、それはみんな同じこと。そして、それでもみんな、みっともなくても生きている。

 『アンパンマン』のやなせたかし先生の話にも、すごく考えさせられました。「悪いヤツをやっつけるだけのスーパーヒーロー」を喜べる環境にいる人間は、すごく幸福なのかもしれない、って。
 その一方で、そういう「現実を忘れさせてくれるスーパーヒーロー」こそが、空腹を満たすことができない世界では、必要であるような気もします。
 
 「豪快なオカン」に見える西原さんの繊細な作品に触れるとき、僕はいつも、「人間の心の内というのは、外見だけではわからないものだな」とあらためて考えずにはいられません。そして、誰の心のなかにも、たぶん、西原理恵子がいるのでしょうね。