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2009年04月25日(土)
『スペースインベーダー』をたった一人で作った男

『週刊ファミ通』(エンターブレイン)2009/5/1号の記事「『スペースインベーダー』生誕30周年〜空前のヒットを支えた知られざる舞台裏」より。(『スペースインベーダー』の開発者・西角友宏(にしかど・ともひろ)さんへのインタビューから。「」内が西角さんの発言です)

【『スペースインベーダー』が誕生した70年後半のゲーム業界は、アタリ社の隆盛もあり、完全にアメリカ主導のものだった。遅れをとっていた日本のゲーム業界は、まさにアメリカに追いつけ追い越せの状況。しかしながら、現在のように開発キットなどの環境が整っているわけではなく、ゲーム開発と言えばアメリカ産の筐体を解析し、似たようなゲームを作るのが精いっぱいの時代だったという。
『スペースインベーダー』を作った西角友宏氏(現ドリームス代表取締役)もそんな混沌としたゲーム業界の中にいた。「真似ばかりの日本のメーカーもオリジナル作品を模索していた時期。そのひとつの方向性として、グラフィック重視が叫ばれていて、ただの四角や三角ではなくて、クルマならクルマらしい形にしようという流れがありました」とその当時を振り返る。
 業界全体がリアル志向へ向きかけたときに、アタリ社の『ブロックくずし』が発売され、ヒットする。これが西角氏のゲーム哲学に大きな影響を与えることになる。
「グラフィックをリアルにしようという思想とは真逆の作品でした。でも、ゲームはグラフィックではなくて、遊びがおもしろいものがうけるんだとハッとしましたね」
 原点回帰とも言えるシンプルな遊びに、西角氏は『スペースインベーダー』へのヒントを得たという。「ブロックを崩したときの爽快感、とくに残りひとつを崩したときの達成感はゲームに入れ込みたい」。インベーダーが大軍で襲ってくる発想はここからだ。
 もうひとつ、西角氏が決めていたのがマイクロコンピューターの導入だった。当時はハード、ソフトという概念はなく、すべてロジックICという集積回路の組み合わせでゲームを制作するのが常識。ソフトのプログラミング次第でゲームの幅が広がるマイクロコンピューターは理想的な開発環境だ。西角氏はすぐさま購入……ではなく、まず着手したのはハードの”解析”。なんとマイクロコンピューターを使った開発ツールから作り始めたのだ。
「当時1000万円以上したので会社が買ってくれなかったのです(笑)。それまでの解析、応用作業の積み重ねが役に立ちました」と西角氏はサラリと話したが、現在では考えられない離れ業。
 ちなみに強調しておくが、当時の開発メンバーは西角氏ひとりであった。マイクロコンピューターの日本語の資料などは当然ないので、辞書片手に文献を読みあさり、実際に作っては改良していく試行錯誤をくり返したという。相当苦労しただろうと思いきや、「マイクロコンピューターを使ったゲームをいちばん最初に作りたいという気持ちが強かったので、あまり苦労は感じませんでしたね。開発ツール作りに熱中しすぎちゃってゲーム開発が進まないこともありました」とむしと楽しくて仕方がなかったと話す。『スペースインベーダー』の画期的なところは、”敵が攻撃してくる”という双方向型を実現したところだが、マイクロコンピューターという強力な援軍と、西角氏のたぐいまれな創作意欲がこの発明を生みだしたのだ。

 西角氏の渾身作『スペースインベーダー』は最初から順風満帆だったわけではない。当時のシューティングゲームは、一定の点数を越えれば時間が延長されるという”最低でも1分半遊べる”という暗黙の決まりがあった。一方で、『スペースインベーダー』には時間的保証はない。しかも、時機が残っていてもインベーダーに侵略されれば即ゲームオーバーという辛口な設定。営業担当からは「シビアすぎて、ゲームの仕様を直したほうがいい」というクレームが幾度となくついた。
「すべて”難しくてできない”と断りました。本当はできたんですけどね(笑)」とやんちゃな表情を見せた西角氏。この強行突破が、シューティングゲームの概念、スリル感を大きく変えたわけだ。だが、当然のことながら発売時点での営業担当の気持ちは穏やかではない。『スペースインベーダー』は当時の最低ロットで世に出回ることになる。さらに付け加えると「ここまで作ったから没にするのもかわいそう」という同情の上での発売だった。しかし、その状況もすぐに好転する。
「発売してすぐに致命的なバグが見つかったんです。修理に向かったら、”このゲーム、インカムがいいからコインボックスを大きくしてよ”といわれて驚きました」。
『スペースインベーダー』の人気が全国区になるにはそう時間がかからなかった。数ヵ月後にはインベーダーハウスが乱立し、テーブル筐体を置く喫茶店も登場。”『スペースインベーダー』のためにテーブル筐体のコインボックスが4倍に拡張された”、”集金車のサスペンションが100円玉の重みで曲がった”、”高級料亭にも筐体が並んだ”など、大ヒットを裏付ける伝説にも事欠かない。1500台出れば大ヒットと言われていた当時に、絶頂期には月産約2000台を誇ったというから驚きだ。「1、2週間徹夜して工場を作って生産を始める無茶ぶりでしたね(笑)」。日本中が『スペースインベーダー』フィーバーに沸いたのだった。】

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 『スペースインベーダー』が世に出たのは1978年6月。僕はまだ小学校低学年でした。ブームそのものというよりは、学校の先生に「とにかく『インベーダーゲーム』はやっちゃダメ」と言われ続けていた記憶しかないのですが、『ゲームセンターあらし』などを通じて、『インベーダーゲーム』は当時の子供たちにもよく知られていました。

 僕は当時、一度だけゲームセンターで『スペースインベーダー』をやった記憶があるのですが、そのときには、あっという間に全機やられてしまって、「これでジュース1本分のお金がかかるのか……10円ゲームのほうがいいや……」と思ったんですよね。たしか、800点くらいしか取れなかったはず。「炎のコマ!」とか言いながらレバーをとにかく激しく動かしてみたりしたのですが、やっぱり無理。

 これを読みながら思い返してみると、たしかに「敵が攻撃してくるテレビゲーム」っていうのは、この『スペースインベーダー』が最初だったのではないでしょうか。「うまい人は延々と続けられるけれども、ヘタな人は一瞬で終わる」というシステムも。たしかに、斬新なゲーム性だよなあ。
 これを周囲の反対のなか、「そんなことできません」と嘘をついてまで実現した西角さんの「先見の明」には驚かされます。昔の僕みたいに、最初に一瞬でゲームオーバーになって離れていった人も多かったと思うのですが、結果的には、厳しいからこそ「うまくなること」にハマっていった人も大勢出たのです。

 いまのテレビゲームのレベルからすれば、「ひとりで作った」と言われてもみんなそんなに驚かれないかもしれませんが、『スペースインベーダー』は、当時のテレビゲームのなかで「最新鋭」だったんですよね。あの頃は、「『スペースインベーダー』を家で遊ぶこと」は、まさに「ゲーマーの夢」でした。
 開発ツールから西角さんが自分で開発していたというのもすごい。
 こういう「創ることに情熱を燃やすひと」がいたからこそ、日本のゲーム業界は進化してきたのでしょう。

 『スペースインベーダー』のブームは1年くらいで沈静化しましたが、このゲームが後世に与えた影響は計り知れません。
 西角さん本人にとっとは、「大ヒットによるごほうびは、ひとつ昇進したことと10000円くらい昇給したことくらいだった」そうなのですけど。