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2009年01月10日(土)
”Joseph, take Mr.Lockwood's horse; and bring up some wine.”を「翻訳」することの難しさ

『翻訳のココロ』 (鴻巣友季子著・ポプラ文庫)より。

(翻訳家・鴻巣友季子さんが名作『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ著)を訳したときのエピソードです)

【じつは、『嵐が丘』を訳し始めてすぐ気になっていた「ワイン問題」がある。
「ジョウゼフ。ロックウッドさんの馬をつないだら、wineを持ってこい」
 と、家主のヒースクリフが老下男に言いつける場面が冒頭近くにあるのだが、ここをどう訳すか、ということ。折々に考えながら、まだ決めかねていた。フランスへはワインの取材に来たのだから、いっとき翻訳のことは忘れればよさそうなものだが、これがトジ者の業というか性というか、ワインを見ればつらつら考えてしまう。

(中略)

 先に挙げた『嵐が丘』のくだりだが、岩波文庫版では「ワインを持ってこい」ではなく、「酒を持ってこい」と訳されていますねと、指摘してくれた人がいて、えっ、そうだったっけと思ったのが事の発端だった。
 もちろん、いまの日本では、wineはワインだし、強いて日本語にするとすれば「ぶどう酒」だろうか。既訳の『嵐が丘』では、この箇所はどう訳されているか。
手に入りやすい文庫版をいくつかあたってみると……。

「ロックウッドさんの馬をあずかれ。酒をもってこい」
(阿部知二訳 岩波文庫 1960年)

「ロックウッドさんのお馬を連れて行け。それから葡萄酒を持ってこい」
(田中西二郎訳 新潮文庫 1961年)

「ロックウッドさんの馬を連れて行け。そしてブドウ酒でも持って来い」
(大和資雄訳 角川文庫 1963年)

「ロックウッドさんの馬をあずかって、それからぶどう酒をもってこい」
(中村佐喜子訳 旺文社文庫 1967年)

「ロックウッドさんの馬をつれて行け。それからぶどう酒を持ってこい」
(河野一郎訳 中公文庫 1973年)

 翻訳者のことばの好みやポリシーもあると思うが、60年代、70年代初めまでに出版されたこれらの訳書では、「ワイン」という訳語が見られないのに注目したい。あの時代はまだ「ぶどう酒」が幅をきかせていたのか。ちなみに80年代に出た、麻井宇介の『ブドウ酒と食卓のあいだ』なる著をひもとけば、「ほんのひと昔まえ、われわれ(日本人)は、生葡萄酒という言葉をもっていた」とある。キブドウシュと読む。「甘口葡萄酒」に相対することばだ。当時はぶどう酒というと庶民レベルでは、赤玉ポートワインのような甘みを加えた滋養ワインを指すことが多かったから、それと区別するために、なにも添加しない本来のワインに「生」をつけた。生一本の「キ」だ。なるほど、70年代には、まだそういう”ぶどう酒ライフ”を日本人は送っていたということか。それが10年後のバブル期には、「世界一早くボジョレー・ヌーヴォが飲める国」と言って浮かれるわけだが。
 30年前に較べれば日常感覚になったとはいえ、いまでも、お客さんにワインを持ってこいと日本語で言うと、ちょっと「晴れの日の」お酒でもてなしてやりなさい、というニュアンスを含む気がするが、どうだろうか。
 なら、『嵐が丘』の舞台になる19世紀の初葉、イギリスではワインはどういう位置にあったかというと……いわば、「舶来品」だろうか(高価とは限らないにせよ)。イングランドのほとんどの地域は気候的にワイン用のぶどう栽培には向かないし、16世紀半ばごろまでは国王や貴族が持っていた数少ないぶどう園も、それ以降は衰退の道をたどった。まあ、フランスからの輸入経路も確立していることだし、わざわざ苦労して作らなくても、ということで、ワインといえば輸入もの、となったようだ。一般の家庭で飲まれていたのは、ビールとそれより安価なジン。ワインはやや「高級な」「特別な」お酒だったのだろう。自家製を密造しようにもできないのだし。
 とはいえ、挨拶にきた店子のロックウッドを、大家のヒースクリフが、勢い込んでとっておきの酒で歓待しようとしているような「晴れがましい力み」は、原文の調子からつゆも感じられない。「いそいそともてなすヒースクリフ」の像では、本来のイメージとはほとんど正反対になって離れてしまう……。
 だからこそ、wineがまだ日本の家庭にまるで浸透していなかった当時、阿部知二はこれを「葡萄酒」とは訳さず、あえて「酒」としたのだと思う。原文にどことなく漂う日常感が喪われてしまうことを危惧し、価値の妙なインフレを避けた。翻訳するさいのこういう取捨選択は、ビシッと腹をくくらないとできないものだ。wineという原語のもつ「情報」を訳者の裁量で捨てるのは、勇気がいる。阿部氏はここで、ディテールの「情報」よりも、全体から見た「トーン」を採ったのだろう。

(中略)

 さて、うっかり飲みすぎる前に、『嵐が丘』の「ワイン問題」にもどる。
 人嫌いの大家ヒースクリフが、挨拶にきた年下の店子ロックウッドに出すお酒はなんと訳せばいいのか? 原文では、”Joseph, take Mr.Lockwood's horse; and bring up some wine.”となっている。

 岩波版の「酒持ってこい」は前項で書いたとおり、名案だと思う。とはいえ、いま現在こう訳したとすると、いささか「日常感」が出すぎだろうかとまた思い悩む。ここでの「酒持ってこい」は、アイルランドで酒といったらビター、鹿児島だったら焼酎に決まっている、という意味での「酒持ってこい」である。十九世紀の北イングランド・ヨークシャーの家庭でワインがそほど浸透していたか、日常感覚を獲得していたか、いまひとつ疑問だ。
 実際、『嵐が丘』の終わりのほうで、舞い戻ってきたロックウッドを歓待するお手伝いのネリーは、「どうぞうちのオールド・エールでも飲んでいってください」と、すかさずエール(ラガーより強くて苦い”ビール”)を勧めるのである。やっぱり、その当時の普段着の飲み物はビールだったろうか。
 と、訳文を順繰りに見ていったところで、「ブドウ酒でも持って来い」という角川版の翻訳に、がぜん目が釘付けになる。この「ブドウ酒でも」の「でも」は「とりあえずビールでも飲むか」の「でも」である。いやいや、ぶどう酒というと仰々しいが、うちの蔵にあるやつだ、たいしたもんじゃないよ、とりあえずってことでね、という軽くいなすニュアンスが絶妙に漂ってくるではないか。「とりあえずビール」の日本的精神が折りこまれているではないか、副助詞の「でも」ひとつ入れるだけで。
 こういう小さな日本語は偉大な役割をはたすなあ、とあらためて感心する。
 このたった二文字は、「ワイン」と書いても「葡萄酒」と書いても失われてしまう原文の微妙な呼吸を、さらりと酌んでいる。
 品詞と構文ばかり訳しそろえることが「正しい直訳」と信じられがちだけれど、そうした翻訳の、なんと窮屈なことか。
 かつての翻訳で、wineを「ぶどう酒」と訳したのは、「ワイン」という語がまだ目慣れないことを思うと、親切な訳だった。時代が下って「ワイン」と訳すのは、ちょっと新しくてお洒落だったかもしれない。でも、半世紀近く前に、wineを「酒」とあえて訳した人がいたことを、わたしは忘れないようにしたい。翻訳がつねにリアルタイムであるためにも。
 たかが、wine、されど、wine。問題の箇所のwineをなんと訳すべきか、ヒントがおぼろげに見えてきた気がする。

(中略)

 しかし、こうして冒頭の「ワイン問題」を考えているうちに、もうひとついいことに気がついた。
 原文の”Joseph, take Mr.Lockwood's horse; and bring up some wine.”は、前半と後半の文のあいだにセミコロンが入っている。これがポイントだ。日本語読者からすると、ピリオドとコロンとセミコロンとカンマの役割の違いってなんなの、と思ってしまうが、この箇所はピリオド(句点)でもコロンでもカンマ(読点)でもない。仮にピリオドを全休符とすると、コロンからセミコロン、カンマへの順で、ブレスが軽く(短く)なっていく。だから、「おい、馬をつないでおけ」(全休符)「それから、ぶどう酒を持ってくるんだ」ではないし、最初からいっきに、「馬をつないで、ぶどう酒を持ってこい」とブレスなしで繋がるのもちょっと違う。後者だと、いかにも勢い込んで歓待している感じがする。もう少し鷹揚な感じがほしい。
 おそらく最初、ヒースクリフの頭には「馬をつないでこい」という命令しかなかった。ひと呼吸おいて、ちょっと思いだしたように「(客も来たことだし、)ぶどう酒でも」となるのではないか。「ちょっと思いだした」という気持ちを引き受けているのが、セミコロンと接続詞のandだ。ここがかなめか。
 うーん、では、これでどうだろう?
「ジョウゼフ、ロックウッドさんの馬をつないでおけ。そうそう、ぶどう酒でもお持ちしろ」
 ああ、やっと決まった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これを読むと、「翻訳」っていうのは本当に大変な仕事なんだなあ、ということがよくわかります。
”Joseph, take Mr.Lockwood's horse; and bring up some wine.”を訳せ、という問題が高校の英語の授業で出題されたとしたら、多くの人は、「難問」だとは思わないはずです。たぶん、「ジョーゼフ、ロックウッドさんの馬をつないで、ワインを持ってきなさい」くらいに訳して、すぐ次の問題にとりかかるはず。
 前後の文脈がわからない状態でいきなりこの文だけ抽出されたら、ちょっと戸惑うかもしれませんけど。

 ところが、こんな「なんでもない一文」にこだわり抜くのが、「プロの翻訳家」なんですね。
 僕たちは、そこにwineと書いてあれば、それは「ワイン」(あるいは「ブドウ酒」)以外の何物でもないだろう、と思ってしまうのですが、確かに、現在と30年前の日本では同じ「ワイン」という飲み物でも、それが読む人に与えるイメージはかなり異なるはずです。
 日本でも、いわゆる「焼酎ブーム」以前とその後では、同じ「焼酎」に人々が受けるイメージが大きく変わってしまったように。以前の「焼酎」は、「酒好きが飲む、酔っ払うための安い酒」であり、いまのような「お洒落」で通好み、というようなニュアンスはありませんでした。

 1960年の岩波文庫版での翻訳を担当した阿部さんも「wine=ブドウ酒」であることは当然承知していたはずなのですが、それでも、(1960年の)「日本の読者がこの場面を思い浮かべたときに、原文に最も近い雰囲気を出すには「酒」のほうが良いだろう、という解釈をしたわけです。もちろん、それが「正解」かどうかというのは難しいし、「結果として読み手が受けるニュアンスは近くても、物質としては別物なのではないか?それでは、『誤訳』なのではないか?」と批判される場合もあるでしょう。
 たぶん、現在の日本で『嵐が丘』の新訳を出すとすれば、そのまま「ワイン」で十分通用するでしょうし、多くの訳者はそうするはず。
 原文は変わらないのに、翻訳では時代によって「よりニュアンスが近い訳」というのが変化していくのです。
 たしかに、同じ作品の翻訳でも古い時代に訳されたもののほうが、いま読むと「違和感」があることが多いですよね。
 そして、『嵐が丘』が発表された時代の人が"wine"に感じるニュアンスと、2009年の日本人が「ワイン」に感じるニュアンスだって、おそらく「別物」なのです。
 "wine"そのものは変わらないのだとしても。

 さらに、同じ言葉でも「葡萄酒」「ブドウ酒」「ぶどう酒」と「もってこい」「持ってこい」「持って来い」のそれぞれ3種類の表記のしかたがあります。「そんなに違うのか?」と僕も思うけれど、「そんなに違わないけど、言葉としての外観は明らかに違う」ので、これらのうちのどれを選ぶかというのも、なかなか難しい問題のように思われます。
 「ピリオドとコロンとセミコロンとカンマの役割」っていうのも、そういえば英語の文法の時間に少し習ったような気もするけれど、それを日本語に反映させるとなると、ここまでいろんなことを考えないといけないんですね。

 「翻訳」というのは、他人が書いたものを「ただ、訳すだけ」と思われがちだけれど、こうして実例を教えてもらうと、突きつめていけばキリがない、大変な仕事なのだということが切実に伝わってきます。