初日 最新 目次 MAIL HOME


活字中毒R。
じっぽ
MAIL
HOME

My追加

2008年08月01日(金)
「日本一の花火大会」と「教祖祭PL花火芸術」

『日本の10大新宗教』(島田裕巳著・幻冬舎新書)より。

【もう一つ、PL教団を有名にしているのが、毎年8月1日に行われる花火大会である。打ち上げ会場は聖丘カントリークラブが使われ、打ち上げられる花火の数は12万発にも及ぶ。ちなみに、隅田川花火大会が2万発で、東京湾大華火祭が1万2000発である。PLが打ち上げる花火の数は、東京湾の10倍である。
 私も一度、このPLの花火大会を見たことがあるが、それはすさまじいものだった。圧巻なのはラストで、どの花火大会でも景気よく数多くの花火が連続して打ち上げられるが、PLの場合、その数は8000発で、それが一挙に連続して打ち上げられる。空全体が花火によって埋め尽くされ、空全体が爆発しているように感じられる。そんな光景は、それまで見たことがないし、それからも見たことがない。PLの花火を経験すると、ほかの花火大会に感動することは難しくなる。
 重要なのは、この花火大会が、たんなる客寄せや観光行事としてではなく、あくまで宗教行事として営まれている点である。その正式な名称は、「教祖祭PL花火芸術」と言う。PL教団の初代教祖は、御木徳一(みき。とくはる)という人物だが、彼は晩年、自分が「死んだら嘆いたりせずに花火を打ち上げて祝ってくれ」と話していたという。この遺志にしたがって、教祖の亡くなった日に、花火という発想も、「人生は芸術である」を掲げるPL教団らしい。
 宗教法人としての認可を受ける際には、アルファベットの表記が認められておらず、PL教団の正式な名称は、パーフェクト・リバティー教団である。この「完全なる自由」を掲げる教団は、高校野球にしても、ゴルフ場にしても、そして花火にしても、一般にイメージされる新宗教とは異なり、かなり現代的である。】

参考リンク:規模縮小!?大阪・PL花火大会“大リストラ”の真相(ネタりか)

〜〜〜〜〜〜〜

 「PL」という名前を聞いて僕がいちばん最初に思いつくのは、高校野球の名門・PL学園です。高校野球の名門校には、天理高校や創価高校など、宗教団体を母体とした高校が多いのですが、この本によると、「全国の私立高校の3分の1は宗教団体を母体としている」そうなので、「高校に宗教団体が関わっている」ことそのものは、全然珍しいことではないみたいです。

 おそらく、地元の人たちには、この「PL花火大会」、ものすごく有名なのでしょうが、僕はこの『日本の10大新宗教』という本を読むまで、この「日本最大の花火大会」である、「教祖祭PL花火芸術」のことを知りませんでした。
 まあ、花火大会というのは基本的に「地元の人たちのためのイベント」なので、九州在住の僕は知らなくても当然なのかもしれませんが、そんなに大規模な花火大会であれば、名前くらい聞いたことがあってもよさそうなものなんですけどね。

 参考リンクによると、
【国内最大規模の花火大会として知られるが、昨年まで10万発としてきた花火の数を、今年は「2万発」と発表したため「規模が縮小されたのか」と1000件近くの問い合わせが相次ぐ事態となっている。】
ということなのですが、実際は、
【PL教団によると、花火の量や規模はこれまでと同じだが「より厳密に数え方を変えた」(教団渉外課)という。例えば、1つの大玉を打ち上げ、上空で10個の小さな玉が広がった場合、昨年までは「10発」と数えていたが、今年からは打ち上げた数で「1発」とすることにした。
 数字上はあえて“激減”させた形だが、教団は「花火の数ばかりを求めて見物客が押し寄せ、万が一の事故につながっては元も子もない」と打ち明ける。】
ということなので、「数え方を変えただけ」みたいです。この参考リンクの記事によると、花火大会の「●●発!」というのには、ちゃんとした基準はないようです。

 それにしても、この「日本一の花火大会」を開催できるPL教団というのは、かなりの財力があるのだろうと思われます。
 一般的な花火大会というのは、多くの地元企業がスポンサーにつくケースが多いのですが、「特定の宗教団体による宗教行事」であれば、スポンサーも「どこでもいい」というわけにはいかないでしょう。
 入場料を取るわけでもないのに、全部教団からの「持ち出し」でやっているのであれば、すごい金額の負担になるはずです。そもそも、打ち上げ会場の聖丘カントリークラブも、PL教団が経営母体のゴルフ場らしいですし。

 いわゆる「新宗教」が関わっていると、すぐに「洗脳されるんじゃないか」と身構えてしまう人も多いのではないかと思うのですが、「花火」となると、それが「教祖祭PL花火芸術」という「宗教行事」であっても、「抵抗感」がなくなってしまうものなのだなあ、と考えさせられる話ではありますね。