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2008年07月25日(金)
「悲しいとき」に本当に聴きたい歌

『鬱の力』(五木寛之・香山リカ共著/幻冬舎新書)より。

(『鬱』という概念についての五木寛之さんと香山リカさんの対談を書籍化したものの一部です)

【五木寛之:戦後の日本は、プラス思考一辺倒でやってきた。それがここにきて転んだ、というのがいまの状況だと思うんです。笑いは批評であり文化であるとはよくいわれたけれど、涙は歌謡曲や演歌の世界だ、マイナスの世界だといわれ続けてきた。でも僕はその考え方に反対なんですよ。
喜納昌吉の『花』という歌は1980年に最初にリリースされたとき、まったくヒットしなかった。当時は「泣きなさい 笑いなさい」という歌詞で、みんな笑っていた。「演歌の歌詞みたいじゃないか」と言われて、「人は人として涙も流す」という歌詞も、なにを言っているのか、まったく理解されなかった。それが、90年代に入ってこの歌をみんなで歌うようになってきた。

香山リカ:あいだにバブル経済をはさんでいるわけですよね。

五木:そう。これも沖縄の人なんだけど、有名な版画家がバンドをつくって、老人ホームに慰安に行った。悲しい生活をしているだろうから、明るく励まそうと、マーチなどの景気のいい曲をやったら、「もうやめてくれ」と言われた。「私たちは毎日、悲しい気持ちで生きている。悲しいときには悲しい歌を聴きたいものなんだよ」と言われて、その版画家は愕然とした。そこで、悲しい歌を演奏してともに涙したところ、すごくいいコミュニケーションが生まれ、「また来てくれ」と言われた。悲しいとき、人は悲しい歌を聴きたいものなんだと、しみじみ思った、と彼は書いています。それは本当です。悲しいときに励ます歌なんかを歌われても、元気づけられるわけがないんですよ。

香山:その一方で、いまは主人公やその恋人が死んだりする、泣ける映画とか泣ける小説がとても流行っていますね。

五木:あれは本物じゃない、表面的な悲哀ですね。笑いだってそうです。テレビの瞬間芸とかジョークを観て、「ふうん」と鼻先で笑うぐらいじゃあ、まったく治療効果なんかないでしょう。

香山:それこそ、俗流のカタルシスですね。こんな可哀想な人がいる、って泣いて、ああ気持ちよかった、っていう。ようするに自分はそうなるまいって、すべて他人事として見ている。これも想像力の欠如とすごく関係していると思うんです。】

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 老人ホームに入所されているお年寄りたちが、みんな「毎日、悲しい気持ちで生きている」というのは、さすがにちょっと極論じゃないかと思いますし、「泣ける映画や泣ける小説」もここまでボロクソに言われる筋合いはないという気はするんですけどね。

 ただ、ここで五木さんが例示されている、「老人ホームへ慰安に行ったバンドの話」には、僕も考えさせられました。
 いわゆる「鬱」の人に対しては、「励ましてはいけない」(励まされることがプレッシャーになり、かえって自分を責めてしまう場合が多い)というのが、「常識」としてかなり知られるようになってきているのです。
 しかしながら、そういう「病名」がついていない場合には、「誰かが悲しんでいるときには、元気が出るような面白い話とか楽しい曲で励まさなくては!」なんて、ついつい考えてしまいますよね。
 ところが、本当に「重い悲しみ」を抱えているときには、むしろ「悲しい曲」のほうが心を安らかにしてくれることが多いのです。
 そういえば、僕が「失恋」したときにいちばん「癒された」のは、槇原敬之さんの『ズル休み』と、ユニコーンの『すばらしい日々』でした(年齢がわかりますね……)。どちらも、ものすごくせつない「失恋ソング」なのですが、あのときは「元気出せよ」「がんばれよ」みたいな感じの曲は、全然心に響いてこなかった記憶があります。

 「悲しいときには悲しい歌を聴きたい」
 多くの人は、たぶん、それが率直な気持ちなのではないでしょうか。
 そういうときの元気な曲って、いまの自分とのギャップばかりが感じられて、すごく「耳につく」ものですし。

 でも、自分がそうであるにもかかわらず、落ち込んでいたり、悲しんでいるのが「他人」のときって、ついつい、「元気づけてあげたくなる」のが人情。
 そこには、「自分の励ましで誰かを元気にした」ことを誇りたいという、ちょっとした「自負心」もあるのでしょうけど、どんなすばらしい励ましの言葉も「一緒に泣いてくれること」には、到底かなわないのです。