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2008年07月22日(火)
詩人アンドレ・ブルトンが、ある物乞いに贈った「キャッチコピー」

『名作コピーに学ぶ 読ませる文章の書き方』(鈴木康之著・日経ビジネス人文庫)より。

(この本の冒頭の「施しを集めた詩人の一言」という項から)

【詩人アンドレ・ブルトンが物乞いにある言葉を贈った話を知っていますか。
 私は『ロスチャイルド家の上流マナーブック』(伊藤緋紗子訳/講談社文庫)で読んで膝を打って以来、よく文章教室のマクラに拝借している話です。フランスの詩人アンドレ・ブルトンがニューヨークに住んでいたとき、いつも通る街角に黒メガネの物乞いがいて、首に下げた札には

  私は目が見えません

と書いてありました。彼の前には施し用のアルミのお椀が置いてあるのですが、通行人はみんな素通り、お椀にコインはいつもほとんど入っていません。ある日、ブルトンはその下げ札の言葉を変えてみたらどうか、と話しかけました。物乞いは「旦那のご随意に」。ブルトンは新しい言葉を書きました。
 それからというもの、お椀にコインの雨が降りそそぎ、通行人たちは同情の言葉をかけていくようになりました。物乞いにもコインの音や優しい声が聞こえます。数日後、物乞いは「旦那、なんと書いてくださったのですか」。
 下げ札にはこう書いてあったそうです。

  春はまもなくやってきます。
  でも、私はそれを見ることができません。

 誰が見てもうらぶれた物乞いです。黒メガネをかけているのだから盲人であることも分かります。「私は目が見えません」は言葉の意味をなしていないのです。
 アンドレ・ブルトンの言葉のほうには、訴えるものがあり、憐れみを乞う力があり、人に行動を促す力、もっとえげつなく言えば集金能力がありました。目的はそれだったのです。読んでもらって、施しの気持ちを起こさせ、施しをいただくこと。
 目的を果たしてこそ、言葉です。】

〜〜〜〜〜〜〜

 いまの世の中で全く同じことをして「通用」するかどうかはさておき、これはまさに「広告」というものの威力を如実にあらわしたエピソードだと思います。
 考えてみれば、この物乞いそのものは、ブルトンの親切な行為(というか、ブルトン自身も親切心だけではなく、「コピーの効果」を試してみたかったのかもしれませんが)の前後で、何も変わってはいません。変わったのは、彼が首に下げた札の言葉だけ。
 ところが、多くの人は、同じ光景を見ているはずなのに、そこに書かれている言葉が変わっただけで、「施しをしたい気分」になったのです。
 「私は目が見えません」
 「春はまもなくやってきます。でも、私はそれを見ることができません。」
 目が見えなければ、「春の訪れ」を視覚で感じることができないというのは、「当たり前のこと」のはずです。でも、道を行き交う人々は、前者には全く心を動かされず、後者には憐憫の情をかきたてられました。
 このエピソードを読むと、人間の「想像力」「共感する力」というのは、自分の興味がないものに対しては、よほど強力な「引っかかり」がないと発揮されないのだ、ということがわかります。
 
 テレビのドキュメンタリーで「かわいそうな身体障害者」のニュースに胸を痛める人はたくさんいるにもかかわらず、近所の街角で困っている人を積極的に手助けしようという人は、けっして多くはありません。実際に他人とかかわるというのは、それなりにリスクを伴う行為なので致し方ない面はあるにせよ、テレビのドキュメンタリーに「感動」させられるのには、その「現実」に心を動かされるだけではなくて、「泣かせるBGM」や「感動的なナレーション」の影響が大きいのではないかと思います。

「目的を果たしてこそ、言葉です」
 たしかにそのとおりです。
 ただ、「言葉しだいで、同じ物事に対しても人の見方はこんなに変わる」というのは、言葉って怖いなあ、と考えずにはいられない面もありますね。