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2008年03月04日(火)
「モテようとしない男は努力が足らない」

『モテたい理由』(赤坂真理著・講談社現代新書)より。

(「第6章・男たちの受難」から)

【武術家の甲野善紀が古武術をはじめたのは「人の運命は決まっているのかいないのか?」という問題を追究するためだったという。
 青年期にこの問題に悩んだ甲野は、いろいろな人に答えを求めに行くが「決まっているが、努力で変えられる」という答えばかりが返ってきておかしいと感じた。「努力できるのも運命のうちであり、だったら運命はやはり決まっていることになる」からだ。たしかに、そうでなければ占いや心理検査の基本性格欄に「努力家」「意志が強い」とか「怠け者の傾向がある」などという記述もあろうはずがない。
 努力できる人は、持ち前の努力家気質が発揮できるのであり、それと同様に、持ち前の気の弱さも、持ち前の優柔不断も、もちろんあるのだ。生まれる前に決まっているとしか思えないことが多すぎる。しかし近現代人のあまりに多くのことは、「努力だけは誰にでもできる」ということを前提に話をし、それは「努力できないのは悪」とまで恐怖の三段抜き論法にすぐになる。
 かくして、
「モテようとしない男は努力が足らない」
「オタクは努力と女から逃げている」
 というそしりが生まれる。
 あんまりでしょう。
 決して自分が望んだわけではなくあまり異性ウケしない容姿に生まれ、異性との関係性の機微をあれこれ微に入り細を穿って研究する趣味嗜好も持たなかった。
 ことの本質は、ただそういうことなのだから。
 だから、女の人は僕たちをほっといてくれていいです、僕たちにただそっと好きなことをさせてください、という本田透の要求はしごくまっとうでつつましやかなものである。それなのに、女たちと恋愛資本主義が、「恋愛市場に参入しないのは努力の欠如であり悪である」とバッシングしてくるのだ。
 人間誰しも、心に愛を持っている。
 誰かに愛を注ぎたい。誰かから愛を受けたい。
 その基本的欲求は、どこかでどのようにかして、どうしても、果たされなければならない。
 でもそれ妄想じゃん、現実じゃないじゃん、と女たちが言う、と本田は訴える。
 しかし女の恋愛も妄想ではないのか? と彼は返す。
 女性誌を読みつくした私に、本田を否定することは決して決して、できない。
 そして本田も言うとおり、「ファンタジーをファンタジーと知って没入できる態度」のほうが、「現実と虚構の区別がない」より、高度なファンタジー作法だと私は思う。】

〜〜〜〜〜〜〜

 努力で変えられるのなら、「決まっていない」のだろうし、「決まっている」のなら、その人が努力することも含めて決まっているのではないか、と僕もこれを読みながら思いました。
 ただ、その一方で、「ヒモになって女性に貢がせ、毎日パチスロばっかりやっている男」をテレビのドキュメンタリーで観ると、「まあ、この男はこういう運命のもとに生まれてきたのだから許してやれよ」とは絶対考えないのも事実なんですよね。
 やっぱり、「そんな生活してないで、『努力』しろよ!」と画面に向かって毒づいてしまうわけです。

 僕は比較的「努力する人」「勉強ができる人」が周りにたくさんいる環境で生きてきたのですが、「努力する人」って、基本的に「努力することが好き」なんですよね。僕だってテスト前には嫌々ながら「努力」していたわけですが、それでも、「勉強を面白いと思っていて、努力を楽しめる人」にはかなわないなあ、と痛感していたものです。
 実際は、僕も「テスト前には勉強できるくらいの努力の才能があった人」だとも言えるわけで、そう考えると、「結局、みんな運命なんだよ」という話になってしまいますよね。
 ただし、さっきの「パチスロヒモ男」への憤りからもわかるように、一般的に人間というのは、「自分が何かをできないのは『才能がないから』だと考え、他人が何かをできないのは『努力が足りないから』だと考えがちな生き物ではあるようです。

 また、同じくらいの「努力の才能」を持つ人間であっても、「環境の力」というのはけっこう大きいと思われます。同じくらいの「モテる才能」を持った男子でも、山の中の男子校で寮生活をするのと、都会の共学の高校に通っているのとでは、「興味の方向性」や「立ち振る舞いの洗練されかた」は大きく違ってくるはずです。

「モテようとしない男は努力が足らない」
「オタクは努力と女から逃げている」
 こういう言説は、今でも本当にしばしば目にも耳にもします。
 そして、それを力説するのは、いつも「勝ち組」である「モテる男」か「モテるようになった男」、あるいは「モテる男にちやほやされたい女」なんですよね。
 よく考えてみれば、赤坂さんが書かれているように「モテる男は正しい」というのは、星の数ほどある人間の「多様な価値観のひとつ」でしかないわけで、僕のように「モテる才能に乏しい人間」が、どうして同じ土俵に好きこのんで立たなければならないのか、疑問になってきます。

 もし、イチローが僕に向かって、「野球をやろうとしない男は努力が足らない」「オタクは努力と野球から逃げている」と説教してきて、「だからお前も野球をやれ、そうしないと生きている意味がない」と決めつけてきたらどうでしょうか。
 「お前の得意分野で勝負しようとするなよ!」って、思わない?
 
 こんな世の中に生まれてしまった人間にとっては、「恋愛市場に参入しないで生きる」というのは、それはそれで難しいことではあるんですけどね。3僕が結婚できてよかったと思っていることのうちのひとつは、「なんで結婚しないのか?」という煩わしい質問をされなくなったことなんですよね。本来は「結婚した理由」が問われるべきなのではなのでしょうが、ある一定の年齢を過ぎると、「結婚していないこと」に理由が必要になるのです。

 ただ、「恋愛」というのは、たしかに「最も多くの人に幸福感を与えられる娯楽」ではあるのかもしれません。
 野球のようなスポーツや学問の世界のように、明確な「勝ち負け」がないので、「生涯でたった一人の女性に愛されただけで勝ち!」みたいな、多彩な「勝利条件」もありますし。逆に、「何人もの異性に愛されたのに満たされない」なんていうこともありがちなのですが……

 極論すれば、人間って、恋愛という娯楽がなくなったら、戦争でもやるしかなくなっちゃうんじゃないかなあ、などと僕は思うのですよ。
 だからといって、「恋愛の才能が無い人」や「恋愛に興味が持てない人」も「恋愛市場」に参入することが強制され、わざわざコンプレックスを植えつけられるというのは、酷い話ではあるんですけどね……