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2007年12月10日(月)
ある作家が、「妻に日記を書くように勧めたときの言葉」

『日記をのぞく』(日本経済新聞社・編)より。

(「現代日記文学の傑作」として知られる『富士日記』の著者・武田百合子さんに、夫であり、有名な作家でもある武田泰淳さんが日記を書くことを勧めたときの話)

【「まことに、すがすがしく、心あつく、簡にして深い、日々の記録である」。『富士日記』の解説で水上勉はこう評したものだ。日記には、地元の人たちとの日々の触れ合いや季節ごとの行事、買い物の値段、谷崎潤一郎や高見順ら著名人の訃報などが、簡潔明瞭に記されている。それはまた、一つの世相史でもある。
「朝、ごはん、うに、海苔、卵、鯖の味噌煮(略)酒屋で。ビール二打、卵十個、納豆一個、マッチ(大)三箱、コロッケ三個、計三千八十円」
 昭和41年(1966年)三月二十七日。四十歳。
 百合子の「絵葉書のように」(『私の文章修行』朝日新聞社)によると、日記を書くように勧めたとき、夫の泰淳はどんな風につけてもいいこと、何も書くことがなかったらその日に買ったものと天気だけでもいいこと、面白かったことやしたことがあったら書けばいい、と言ったという。また、百合子自身も、自分に似合わない言葉や、きらいな言葉は使うまい、と心に決めていた。
 朝昼晩の食事メニューがいわば”定食”にもなっていた日記には、近くの店で買って来たまぐろを照り焼きにし、大根をおろすといった、ごく日常の光景が実にきめ細かく描写されている。五感で写しとったことをのびのびと直截的に表した文章に接すると、あたかも同じときに同じところに身を置いているかのように引き込まれていく。
「帰り、スタンドで売っている山芋を買うと、おじさんは『タダでやる』といってきかない。わるいから、なめ茸の瓶詰二個、ごぼう味噌漬など、買ってしまう。すると今度は、おでんを二皿『タダでやる』と言う。タダで食べる。おじさんは、そばに椅子を持ってきて腰かけて話をする」
 昭和40年(1965年)十月二十五日。四十歳。】

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 この『富士日記』は、随筆家・武田百合子さん(1925〜93)が、1964年から富士山麓の山荘(山梨県鳴沢村)での日常生活を、夫の武田泰淳さんが亡くなられる直前までの13年間にわたって綴ったものです。
 日本の現代日記文学における、ひとつの「金字塔」として知られる傑作なのですが、この日記には、別に何か特別すごい「歴史的な大事件」が書かれているわけではないんですよね。

 僕がこの『富士日記』の項を読んで印象に残ったのは、【日記を書くように勧めたとき、夫の泰淳はどんな風につけてもいいこと、何も書くことがなかったらその日に買ったものと天気だけでもいいこと、面白かったことやしたことがあったら書けばいい、と言った】という部分でした。言われてみれば、ごく当たり前の話ではあるのですが、「書くことがないから、ブログを続けられない」と悩んでいる人にとっては、かなり役に立つ話ではないかと思うのです。
 この本で紹介されている古今の「有名な日記」のなかで目立つのは、「筆者が日々食べているものを記録している日記がかなり多い」ということでした。大きなイベントや面白いエピソードが毎日起こるなんてことは、どんな有名人でもまずありえないと思うのですが、「買い物」「食事」というのは、生きているかぎりどんな人でも日々行っていることで、しかも、それを記録するだけで、けっこう日々の生活の貴重な記録になるのです。
 大きな買い物をした日、御馳走を食べた日、食事がのどを通らなかった日にも、それぞれの「理由」があるでしょうし、後から思い返してみたら、「ごくふつうの家族の夕食」がすごく貴重な時間だった、ということだってあるはずです。もちろん、書くことがたくさんある人は「食事の内容」をわざわざ記録する必要はないでしょうけど、「ブログをやってみたいけど、書くことがない」という人は、まず、「家計簿」や「食事記録」からはじめてみれば良いのではないでしょうか。それなら、「書くことがない日」は存在しないはずだから。
 その好例として、『食べたものを淡々を記録するよ』という有名なブログもありますし。

 実は、歴史研究家たちによると、そういう「淡々と記録してある日記」というのは、けっこう貴重なのだそうです。歴史的事件や宮廷料理のレシピなどの「記録」はたくさんあっても、その時代の「普通の生活(物価や日常食べていたもの、その製法など)」というのはなかなか正確なデータが残っていないものらしいので。

 もちろん、この『富士日記』のような作品が誰にだって書けるというわけではありませんが、そういう「文学的な評価」はさておき、書いてみてはじめてわかることって、けっこうたくさんあるのではないかと思いますしね。