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2007年07月31日(火)
「プロレスの神様」と呼ばれた男

『日刊スポーツ』の記事より。

【「プロレスの神様」とうたわれたカール・ゴッチさんが28日(日本時間29日)、米国フロリダ州タンパの自宅で死去した。死因は肺炎とみられている(付記:実際は胸部大動脈瘤破裂だったそうです)。82歳だった。ゴッチさんは61年4月、日本プロレスのワールド・リーグ戦で初来日。自ら編み出したジャーマン・スープレックス(原爆固め)を日本に広め、アントニオ猪木、藤波辰爾らを輩出するなど、日本プロレス界の「育ての親」だった。生前も無我ワールドの名誉顧問を務め、日本プロレス界の発展に尽力していた。

 厳しい指導で知られ、新日本では藤波、佐山、前田ら、そうそうたるメンバーを育てた。ウエートトレは用いず、75年には自宅に住み込んでいた藤波を動物園に連れて行き、手本としてゴリラの筋肉を見せたこともあった。52年ヘルシンキ五輪のレスリングで銀メダルを獲得した技術はもちろん、レスリング技を応用したジャーマン・スープレックスを編み出すアイデアもあり、日本で「ストロングスタイル」を確立した。】


『1976年のアントニオ猪木』(柳澤健著・文藝春秋)より。

【猪木がまだ力道山の付き人を務めていた1961年5月、カール・ゴッチは第3回ワールドリーグ戦に参加するために初めて日本のリングに上がった。
 この時にゴッチが披露したジャーマン・スープレックス・ホールドの衝撃を、猪木は以下のように書いている。
<<初来日のゴッチは恐ろしく強かった。力も強くスピードもあり、関節技のテクニックは世界一だったのではないか。私は時間を見つけてはゴッチの試合を覗き見、深く感銘を受けた。特にジャーマン・スープレックス・ホールドという、相手の腰を抱えたまま投げてブリッジでフォールするという技を初めて見て、鳥肌が立った。それからは、力道山の付き人の仕事の合間に、外人側の控室に走って行き、ゴッチの指導を受けた。日本プロレスのやり方とはまるで違って、身体の各部を鍛え、しかも筋肉の柔軟性を失わないように計算されている合理的なトレーニング法だ。私はゴッチに心酔し、自分もゴッチのように強くなりたい、と願った>>
 カール・ゴッチのジャーマン・スープレックス・ホールドは投げ技と固め技がひとつに融合したプロレスで最も美しい技だ。猪木がゴッチに魅せられたのも当然だった。
 観客もまたジャーマンの美しさに驚嘆し、ゴッチに熱狂的な声援を送った。だが、力道山はゴッチを二度と呼ばなかった。力道山が生涯勝つことができなかったレスラーはメキシコのエンリケ・トーレスとゴッチの2人しかいない。力道山はゴッチの人気に嫉妬し、誇り高きゴッチは力道山に負けることを拒んだに違いない。
 ゴッチが5年ぶりに再来日を果たしたのは力道山の死後、66年7月のことだ。ゴッチは相変わらずの神業を披露しつつ、試合の合間に日本プロレスの若手を自主的に指導した。
 階段や路面を使い、小鹿雷三(グレート小鹿)や杉山恒治(サンダー杉山)などの若手レスラーに基礎トレーニングを行う見事なコーチぶりに感心した芳の里はゴッチに本格的なコーチを依頼し、快諾したゴッチは68年4月から住まいを東京に移した。ゴッチは日本で最初のプロレスのコーチになったのだ。

(中略)

 猪木がゴッチから学んだものを大きく分ければ、次の3点になるだろう。

1.相手を制圧するためのレスリングのテクニック。
2.試合を終わらせるための関節技と裏技。
3.観客を魅了するための美しい必殺技。

 倒す、投げる、抑えつける。レスリングにパワーは不可欠だ。だがそのパワーはバーベルを持ち上げるような単純なものではない。バーベルは動かないが人は動き、そのたびにバランスが変わり、必要な力のベクトルも瞬間的に変わる。相手の動きに即座に対応し、倒し、投げ、有利なポジションを保持し続ける能力。それこそがレスリングに求められる能力なのだ。アントニオ猪木は日本のトップレスラーとして初めて、グラウンド・レスリングのエキスパートになった。

(中略)

 相手を制圧できれば、次は試合を終わらせなければならない。そのために必要となるのが関節技および裏技である。
 裏技とは、相手の目に指を入れる、噛みつく、指を折る、ヒジを落とす、肛門に指を入れるという類のものだ。勝つためならば何をしてもいい。関節技が極められなければ、頭や顔を殴ってでも極めてしまえ。相手がうつぶせになって守っていたら、膝を相手の太腿に落としてからひっくり返せ。フェイスロックにいくふりをして顎を殴れ。観客から見えない位置から肛門に指を突き立てろ。相手がひるんだ隙に腕や足を取れ。このようにゴッチは猪木に教えた。
 猪木がゴッチから受け継いだ代表的な必殺技といえば、前述のジャーマン・スープレックス・ホールドと、アントニオ猪木の象徴ともいえる卍固めが挙げられる。

(中略)

 猪木は、師匠のカール・ゴッチが決して「神様」ではなく、アメリカでは受け入れられない時代遅れのプロレスラーであることを充分に理解していた。
 それでも、ゴッチのレスリングに対する真摯な姿勢には共感できたし、テクニックの細部とパワーアップおよび柔軟性向上のためのプログラム、コンディショニング維持のためのエキササイズは是が非でも学んでおきたかった。
 猪木はゴッチの強さを身につけた上で、華やかなアメリカン・スタイルのプロレスラーになることを目指したのだ。】

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 「プロレスの神様」カール・ゴッチ。【80歳を過ぎてもゴッチさんは毎日、腕立て伏せ200回をこなし、ワインを一晩に2、3本も空けてしまうほど元気】だったそうです。【亡くなられる数日前から容体が急変。自宅近くの病院に一時入院し、最後は愛犬を残した独り暮らしの自宅で亡くなった】ということなのですが、たぶん、「カール・ゴッチ逝去」のニュースというのは、ゴッチさんが住んでいたアメリカでは、日本ほど大きく取り上げられることは無かったのではないでしょうか。

 僕が小学生〜中学生だったころ、今から20〜30年くらい前は「プロレス」は野球と並ぶ「人気スポーツ」で、僕たちはみんな「プロレスごっこ」をして遊んでは怒られていたものでした。
 当時の人気レスラーといえばタイガーマスク、そしてもちろんアントニオ猪木だったのですが、当時の「プロレス少年」たちはみんな、「鉄人」ルーテーズ、と「神様」カール・ゴッチの名前を記憶しているはずです。

 実は、僕もカール・ゴッチの実際の試合は、その一部を昔の映像で観たことがあるくらいなんですよね。カール・ゴッチは「新日本プロレス」の旗揚げ戦でアントニオ猪木と対戦しているのですが、その試合が行われたのは1972年で、ゴッチ48歳のときでした。要するに、僕くらいの世代は、ちょうど「カール・ゴッチの現役生活が終わったあとにプロレスを観はじめた」というわけです。

 しかしながら、実際の試合をほとんど観たことがないにもかかわらず、「神様」ゴッチの名前は、僕たちの間でも有名でした。当時、梶原一騎原作の『プロレス・スーパースター列伝』などのマンガやプロレス雑誌でのカール・ゴッチは、まさに「神様」だったのです。
 僕たちにとってのスーパーヒーローだった猪木よりも圧倒的に強いレスラーであり、若手を厳しく鍛え上げる「ゴッチ道場」の鬼コーチでもあるカール・ゴッチは、実際に彼が闘っている姿を観たことがないだけに、なおさら、心の中で「神格化」されていったのです。それこそ、マンガの中だけに存在する架空のスーパーヒーローのように。もし、ゴッチのプロレスを毎週のように観ていたら、ここまで「神様」として心に残ることはなかったかもしれません。
 
 ここで紹介した『1976年のアントニオ猪木』という本で紹介されているカール・ゴッチの話は、僕にとっては、「神様」の実像が伝わってくる、非常に興味深いものでした。
 技だけではなく、トレーニング方法にまで革命をもたらしたカール・ゴッチなのですが、その一方で、「勝負」に関しては、限りなく非情な一面もあったようです。正攻法のレスリングや美しい技を追究する一方で、「肛門に指を入れる」いうようなダーティなテクニックも、「神様」は惜しげもなくアントニオ猪木に伝授したのです。強いにもかかわらず「華がない」ためにアメリカでは実力ほど評価されることがなかったゴッチにとっては、日本のプロレスというのは、「自分を認めてくれる国」であり、アントニオ猪木は「最高の作品」だったのかもしれません。

 そういえば、僕たちはさんざんいろんなプロレス技の練習をしたけれど、ジャーマン・スープレックス・ホールドだけは、誰もマネしようとはしなかったなあ……