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2007年06月25日(月)
「どうしてできないの?」

『上京十年』(益田ミリ著・幻冬舎文庫)より。

(「譲れないこと」というエッセイから)

【今年に入って習いはじめたピアノを少し前にやめた。別にピアノが嫌になったわけではないのである。
 レッスンの日にうまく弾けない曲があった。先生の説明はよくわかるのだが、頭で理解したからといって指がすぐに動き出すというものではない。焦れば焦るほど緊張して、もっとできなくなっていくわたし。どうしよう……。モタモタしていると、先生がこう言った。
「違う、違う、ほら、もう一回、どうしてできないの?」
 わたしはこの瞬間、ピアノ教室をやめようと思ったのである。
 どうしてできないの?
 学校で、習い事で、塾で。子供の頃、よく大人からそんな言葉をかけられたものだ。言う側は別に怒っているのではなくポロッと出るのだろうが、言われたほうはできない自分を責めてしまう。幸い、うちの親は口にしなかったけれど、わたしは、ずーっとこのセリフがおっかなかった。どうしてできないの? と大人たちに言われて、子供に一体どんな答えがあるというんだろう。わたしは久しぶりにその言葉を聞いて、なんて無意味なのだとあらためて思った。
 ピアノの先生は優しかったし好きだったけれど、わたしはもう大人になったので、誰からも「どうしてできなの?」って言われたくないって思う。できないのもまた、わたしなのだ。
 ひとつ後悔しているのは、先生に自分の気持ちを伝えずにやめてしまったこと。焦らないで教えてくださいって言ってみればよかった気もする。子供の頃は大人にそんなことを言えるわけがなかったが、今のわたしは子供じゃないのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 どうしてできないの?
 僕も子供の頃、こんなふうに他人に責められるのはとても苦痛でしたし、もちろん今でも嫌です。
 どうしてできないのか自分でわかるくらいなら、言われなくてもできてるに決まってるだろ!と、何度心の中で叫んだことか。どうしてもできないから、どうしてできないのかわからないから、こっちも困り果てているのだというのに。
 そもそも、どうしてできないのかを考え、できるようにするのが「教える側の仕事」のはずなんですよね。

 でも、僕も職場で若手を教える立場になったとき、つい、この言葉が口をついて出そうになったことが何度もありました。いや、記憶にないだけで、何度か実際に口にしてしまったかも。
 この「どうしてできないの?」「どうしてできないんだ!」って言うときって、教える側にとっては相手に「質問」しているのではなくて、相手を「詰問」しているのです。自分がうまく教えられない苛立ちのあまり、つい、「どうしてできないの?」と相手を責めてしまうんですよね。「できないのは僕のせいじゃない!」と。

 もちろん、教える側が「どうしてできないの?」って言ってしまいたくなる気持ちも今の僕にはよくわかります。相手に明らかにやる気がなさそうなときは「どうしてやろうとしないの?」って言いたくもなりますし、教える側にとっても「どうしてなのかよくわからない場合」だってあるんですよね。
 僕の職場でも、「どうしてできないの?」って何の疑問も持たずに言い放ってしまうような人の下についた若手には、辞めてしまったり休職せざるをえなかった人が多かったような記憶があります。「反論したりかわしたりできない子供や後輩」にとっては、自分を指導する人に「どうしてできないの?」って追い詰められるのって、本当に辛いことなのです。その人が真面目で「他人のせいにできないタイプの人」であればなおさら。
 そして、大人や上司にとっては、そういう人をひたすら追い詰めていくのには、サディスティックな快感があるように思われます。責めているうちに、どんどん投げつけられる言葉がエスカレートしていったりして。
 どちらが「子供」なのかわかりゃしませんが、責められる側にとっては、逃げ出したくてもどうしようもないのです。

 この先生は、益田さんが大人だからこそ、そんなに深く考えずに「どうしてできないの?」って言ってしまったのかもしれません。でも、先生はなぜ益田さんが突然辞めてしまったのか、理解できないのではないかなあ。
 そして、益田さんも大人なのだから、そのくらいのイヤミは聞き流すべきだったのかもしれません。僕もこれを読んで「その言葉を『久しぶりに聞いた』という益田さんはのどかに暮らしておられるんだなあ」と皮肉半分で思いましたしね。

 それでも、「どうしてできないの?」って言ってしまう人は、やっぱり「先生失格」だと僕も考えています。

 「どうしてできないの?」って言われて傷ついたことがある人はたくさんいるはずなのに、どうして、みんな自分が「大人」になるとそんな「痛みの記憶」を失ってしまうのでしょうか……