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2007年06月23日(土)
日本とアメリカの「映画監督と助監督の違い」

『hon-nin・vol.03』(太田出版)より。

(「はじめての頂上対談〜北野武×松尾スズキ」の一部です)

【松尾スズキ:そもそも最初に映画を撮ることになったとき、プレッシャーは感じましたか?

北野武:俺が(映画第一作目の)『その男、凶暴につき』を撮ったときはもう、生意気なさかりだからね。漫才で上がってきて、ラジオやったりなんかして、だから(深作欣二監督のピンチヒッターとして)急遽監督することになったときも「まあ、なんかできるだろう」と思われてたみたいで。ただ、周りのスタッフは「この人は何も知らねえ、我々がどうにかしないとダメだ」と思っていただろうから、ずいぶんよくやってくれたよね。あと、やっぱり、評論家も含めて映画が好きな人たちって、結局は自分自身が監督をやりたいんだよね。だから急に違う世界から来て、作品撮られて評価でも受けようもんならイライラするんじゃない? だから悪口が始まるんだ。俺、水野(晴郎)さんの作品を初めて見たときは安心したなあ。

松尾:(笑い)。

北野:本当に映画を愛してるんだこの人って思うよね。愛は盲目(笑)。あんなに何も見えていない人はいない。

松尾:でも、たけしさんが先に映画業界に切り込んでいってくれたおかげで、後続の僕らはだいぶ楽になりました。特に偏見もなく「分かってるから、一緒に作りましょう、監督」って感じに現場はなっています。

北野:必死になって監督を目指している助監督がよくいるんだけど、現場で何を習ってるかっていうと封建的な上下関係の中での立ち振る舞いだけだったし。いろんな現場をたらい回しにされて、原石をどんどん削られているような気がするの。で、「監督やんなさい」ってなった頃には、こんなちっちゃなダイヤになってる感じがあって。もっと原石のときにいきなり撮らせたほうがいいんじゃないかなと思うけどね。自分の映画にも助監督がいて、その人たちがいるから今回の映画も撮れているわけで、あんまり「いつまでもこんなことやってちゃいけないよ」とも言えないんだけど。でも、アメリカなんか行くと、助監督は助監督というひとつの仕事であって、助監督から監督になるコースはないから。日本みたいに、監督になるためのステップとして助監督をやるという考え自体がない。

松尾:日本だと、助監督にはいずれ監督になりたい人たちが集まってくるものですけど、「監督にはなれないだろうな」って人、けっこういますもんね。

北野:うん。これがかわいそうなんだよね。まあ野球チーム作っても何してもそうなんだけど、もう、どう見てもダメなのがいるんだよな。でも「下手だからやめな」とも言えないんだ。また、そういうやつにかぎって一生懸命やるわけ。そいで、本人は自分が下手なことに気づいていない。まあ、漫才とかお笑いの世界ってのもみんなそうなんだけど。】

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 水野晴郎さんの『シベリア超特急』シリーズを観ていると「映画への愛情」と「映画を撮る才能」というのは、必ずしも一致するものではないのだなあ、という気がしてきます。まあ、あれはあれで一種の「キワモノ」として、好事家たちにはけっこうウケているみたいなんですけど。水野さんも嬉々として続編撮ったりしていますし、まさに「恋は盲目」ということなんでしょうね。しかし、映画評論家・水野晴郎が他人が撮った映画としてあれを観たら、いったいどう評価するんだろう……

 それはさておき、ここで北野監督が書かれている「日本の映画界で監督になるためのシステム」というのは、確かにあまり「合理的に才能を拾い上げるための方法」ではないのかもしれません。「助監督」という役割には、「創造性」よりも「調整力」のほうが必要なようですし、スポーツ界での「名選手、必ずしも名監督ならず」というのと同じように、名助監督は、必ずしも「映画監督としての才能」を持っているとは限らないんですよね。逆もまた然りで、監督としての才能があっても、助監督として有能だとは限りません。優秀なクリエイターの中には、なかなか周囲と妥協できないタイプの人も多いでしょうし。
 でも、今の日本では「無能な助監督」には、「監督」としてのチャンスが与えられることはほとんどありません。プロ野球選手になるためにサッカーの技術を評価されるようなシステムになっているわけです。

 北野監督によると、アメリカでは、「監督」と「助監督」というのは、「それぞれ違う仕事」として認識されているそうです。アメリカには日本では、「優秀な助監督から監督に」なるというコースがなくて、「監督コース」の人は「ダメな監督から優秀な監督に」なることを目指し、「助監督コース」の人は、「超大作の助監督を目指す」という「分業化」がなされているんですね。いや、アメリカの助監督だって、「自分も監督やってみたいなあ……」って思うことはあるかもしれませんけど。

 もちろん、監督には「協調性」も必要でしょうし、いろんな人の役割がわかるという意味では「助監督経由の監督」というシステムが必ずしも悪い面ばかりではなさそうなんですが、こういうシステムって、「極端な面がある天才」を発掘するには不向きな気はしますよね。