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2007年06月21日(木)
「ドキュメンタリーとドラマの違いって分かる?」

『Q&A』(恩田陸著・幻冬舎文庫)より。

(作中の、あるドラマ脚本家とその友人との会話の一部です)

【「言葉は怖いんだよ」
 確かに、よく取材とかするの?
「まあね。プロデューサーとか、スタッフと何人かで一緒に取材したり、資料読んだり、話聞いたりすることはある。でも、あんまり取材には頼らないなあ」
 細かいところが違うとか抗議来たりしないの。
「抗議はいろいろ来るよ。でも、しょせんはフィクションだし、ファンタジーなんだから、いちいち気にしていると切りがない。ドキュメンタリーとドラマの違いって分かる?」
 脚本があるかないかってことじゃないの。
「ドキュメンタリーだって、脚本がないわけじゃないよ。あたしが思うに、ドキュメンタリーは見えるフィクションで、ドラマは見えないフィクションだよ」
 見えるフィクションって。
「実在するフィクションとも言えるかな。交通事故があった。目撃者が証言した。目撃者は確かにその場にいたし、実際にその場で事故が起きるところを見た。彼は言う、よくある今ふうの若者の無謀運転だった。だけど、記憶は嘘をつくし、その人の知識や先入観で口にすることは違う。確かに運転手は若かったし、髪を染めていた。だけど、彼がストレスの多い仕事で白髪が目立つので髪を染めていたことや、親が倒れて急いでいたことを知っていたら、その目撃者はそうは言わなかったでしょうね。写真だってトリミングの仕方で、写っているものの見せ方は全然変わってくる。歴史的スクープと言われてきた写真が、トリミングの仕方のせいで誤った解釈をされてきたこともある。だから、事実と呼ばれているものだって、嘘をつく」
 事実も嘘をつく?
「うん、そう思う」
 じゃあ、どうやって事実を調べればいいの。
「さあね、事実はいっぱいあるってことを認識するしかないんじゃないの。人の目の数だけ事実はあるんだからさ」
 人の目の数だけ。そうかもしれないね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この部分を読んでいて、映画『大日本人』で、松本人志さん(演じる主人公)が同じようなことを言っていたのを僕は思い出してしまいました。
 「ドラマ」は嘘で、「ドキュメンタリー」は事実。そして、一般的に「ドキュメンタリー」というのは、「ドラマ」より高尚なものだ、というようなイメージが持たれがちなのですが、実際は「ドキュメンタリー」が写しているものは「誰かがトリミングした事実の一面」でしかないんですよね。

 僕は職業柄、医療訴訟に関する報道を見聞きすることが多いのですが、あの「報道」というのも「どちらの立場に立って伝えるか」によって、視聴者が受ける印象というのはかなり違うものになるのは間違いありません。「患者側からみた医療訴訟」というのは、「医者は傲慢でキチンと検査もしてくれず、説明もしてくれなかった。医者の手抜きやミスで幼い命が失われた……」というような感じで語られがちなのですが、医療者側の視点でみれば、同じ事例が「日中の勤務をこなしたあと一睡もせずに当直をしていて、大勢来院した中のひとりである『夜中に受診したほとんど症状のない患者さん』に対して詳しい検査をしなかった。説明をしても、患者さんの家族は激高するばかりで聞く耳を持ってくれなかった」というように見えることもあるのです。そして、「こんなことで『社会的責任』を追及されるなんて……」と僕らはひどく落ち込んでしまいます。

 たぶん、世の中で「事実を報道」されていることの多くで、大部分の当事者たちは、「こちらの事情も知らずに理不尽に責められている」と感じているのではないでしょうか? あの社会保険庁にしたって、「社会保険庁側の立場から今回の年金の問題を見ている人」なんて、ほとんどいませんし、いたとしても彼らの声は「抹殺」されているはずです。あの鳴り止まない苦情電話を受ける人たちだって、大変だと思いますよ。世間の人たちは、今なら社会保険庁には「何を言っても許される」と信じているでしょうから。
 あの人たちの「ドキュメンタリー」、どこかのテレビ局で作ってあげればいいのに。
 「ドキュメンタリー」と呼ばれている番組でも、あるスポーツ選手の視点と、彼のライバルの視点とでは、同じ試合でも全く正反対の印象を視聴者に与えることもありえます。そしてもちろん、製作者たちは、それを十分承知の上で、ドキュメンタリーを「演出」しているわけです。BGMひとつでも、それによって視聴者が受ける印象は、ものすごく違ってくるのです。

 でも、ここに書かれている
【じゃあ、どうやって事実を調べればいいの。
「さあね、事実はいっぱいあるってことを認識するしかないんじゃないの。人の目の数だけ事実はあるんだからさ」】
 というやりとりを読みながら、僕はこんなふうにも考えてしまうのです。
 結局のところ、世の中には「その人にとっての事実」しか存在しなくて、「絶対的な事実」を追い求めるのはムダな努力でしかないのではないか? 自分を保つためには、ある程度は「自分にとっての事実」を優先せざるをえないのではないか?

 視点が増えれば増えるほど、混乱してしまって、「生きていくのに必要な正しさ」から遠ざかってしまっているような気がするときって、ありませんか?