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2007年01月23日(火)
「ところが私にとっての宗教は、理論ではなく体験なのだ」

『妖精が舞い下りる夜』(小川洋子著・角川文庫)より。

【私の育った家庭には信心があったので、生活の中に宗教的な香りがあふれていた。家が教会と同じ敷地内にあって、食事をしたり歯を磨いたりするのと同じように日常的にお祈りの時間があった。そして祖父がお説教をした。その祖父が、子供の私にとってはなかなか印象深い人だった。宗教家でありながら人間臭い所があった。
 教会の近くに岡山東商業高等学校があったのだが、元大洋の平松投手を擁して選抜で初優勝した時、祖父は見ず知らずの監督のもとへ一升瓶を下げて出かけた。「よう優勝してくれた。よう喜ばせてくれた」と、お礼が言いたかったらしい。グラウンドの隅で、着流しのおじいさんとユニホーム姿の監督が一升瓶でお酒をくみかわしている場面を想像すると、何となくいとおしいような、不思議な気分になってしまう。
 とにかく、祖父の生き方の基本は徹底的な感謝だった。お風呂に入る時、お湯にまで感謝していた。そして感謝のあまり、実によく泣いた。青年時代に大喀血して倒れながら信心で救われた話をする時と、西田幾多郎の和歌を唱えるときには、必ず泣いた。西田哲学がどんなふうに祖父の宗教的問題を解決するてだてとなったのか、小学生の私には見当もつかなかったが、ただ人目をはばからずに泣いている祖父の姿を、一種感動的に眺めていた。その涙が悲しい涙やうれしい涙でなく、「ありがたい涙」であるだけに、やはり私はいとおしい気持ちにかられた。
 現代の若者で、人生の困難を宗教によって解決しようとする人はほとんどいないだろう。知的、経済的、本能的、あらゆる種類の欲求を満たしてくれるモノが現代社会にはあふれているし、情報の洪水の中からたった一つの信じるべき教えを見つけ出すなんて、ナンセンスだと思われている。
 私だってもし祖父が宗教家でなかったら、きっと宗教とは無関係に生きているだろう。理論、教義から入信することはとても難しい。ところが私にとっての宗教は、理論ではなく体験なのだ。野球部の監督や、お風呂のお湯や、西田博士に感謝し泣いている祖父の姿が、そのまま感覚的に神を信じる心と結びついたのだ。私の性質の一部のように、あまりにも日常に宗教が入りこんでいるので、そのことをいいか悪いかで判断することもできないでいる。でも、たぐいまれな強運などと言われると、やはり私の中にある宗教的な部分を思い浮かべてしまう。
 自分と宗教のかかわりについて考えていると、どうしても自分と小説の関係を無視できなくなる。人に「どうして小説なんか書くんですか」と聞かれて、ドギマギすることがある。それは「どうして神を信じるんですか」と聞かれる時も同じだ。一応自分なりに納得している理由があっても、それを口で説明しようとすると、照れる。小説を書くことも、宗教と同じで自分の性質に組み込まれているからだろう。】

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 『博士の愛した数式』などの作品で知られる小川洋子さんの「私が神を信じるようになった理由」(小川さんは金光教の信者だそうです)。
 僕などは「宗教」というものに対して、とくに「オウム事件」以来「お金を巻き上げられる」とか「洗脳されて言いなりにさせられてしまう」というようなネガティブなイメージしか持てないし、特定の宗教に過剰に傾倒してしまう人を白眼視してしまうのですが、この小川さんの話は、僕のそんな「神を信じる人は異常なのではないか?」という先入観を少し変えてくれたような気がしました。

【私だってもし祖父が宗教家でなかったら、きっと宗教とは無関係に生きているだろう。理論、教義から入信することはとても難しい。ところが私にとっての宗教は、理論ではなく体験なのだ。】

 おそらく、小川さんは「神を信じている」というよりは、「神を信じていたお祖父さんの生き方を信じている」のではないでしょうか。いや、このあまりに不器用で人間的すぎる小川さんのお祖父さんの姿は、僕からすれば「こういう生き方だと、かえって生きづらいのではないかなあ」とも思えるくらいなのですが、小川さんは、そんなお祖父さんが大好きだったのでしょうね。
 「宗教」というものの「理論」「教義」に対して、現代に生きる僕はかなりの矛盾や反発を感じますし、「宗教にすがらなくても生きていける時代」に生まれれば、あえて「神」を持つ必要なんてないのかもしれません。でも、今までの歴史を生きてきた多くの人々にとっての「宗教」っていうのは、「自分の親や周囲の人が信じ続けてきた伝統」であり、「いつのまにか身についてしまっていて、それが当たり前のことになってしまっているもの」なのですよね。それはもう「正しい」かどうかという問題ではなくて。

 世の中には問題が多い危険な宗教もたくさんありますし、僕もたぶん、これからの人生において何かの熱心な信者になることはないと思います。ただ、その一方で、「人は『理論』や『教義』の正しさに魅かれて何かを信じるわけではない」ということは、心に刻んでおくべきなのでしょう。人間が信じられるのは、やっぱり同じ人間だけなのかもしれません。
 むしろ、「神を信じるようなヤツはみんなバカだ!」と自信を持って言うような人のほうが、もっとやっかいな「神」にとりつかれているような気もしますしね。