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2006年11月23日(木)
ネット上の「みんなの意見」は正しいのか?

「週刊アスキー・2006.10/24号」の連載コラム「仮想報道 Vol.454〜『みんなの意見は案外正しい』というのはほんとうか?」(歌田明弘・著)より。

【ネットの役割が大きくなればなるほど、みんなの意見が正しいかどうかが重要になってくる。ショッピングサイト内などでは、利用者の感想を見て購入することが多くなってきたし、政治や経済の話もブログの意見を参考にしたりする。あるいは『教えて!goo』やカカクコム、メーカーサイトのフォーラムなどでは、利用者どうしが教えあう。
 金融関係のコラムニストのスロウィッキーが書いた『「みんなの意見」は案外正しい』の邦訳の帯には、梅田望夫さんの話題の本『ウェブ進化論』の一節が引用されている。「『次の10年』は『群集の叡知』というスロウィッキー仮説を巡ってネット上での試行錯誤が活発に行われる時代と言ってもいい」。たしかにネットは、「みんなの意見は案外正しい」かどうかの一大実験場と言える。この問題は、ネットの根幹にかかわる重大な問いになってきたし、今後ますますそうなっていくだろう。
 スロウィッキーの本では、見本市にやってきた雑多な人々が予測した牛の体重は、平均するときわめて正確だった、といった話に始まって、少数の専門家などよりも”みんな”が正しかった例がこれでもかとばかりに並び、次のように主張している。
「正しい状況下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中でいちばん優秀な個人の知力よりも優れている。優れた集団であるためには特別に優秀な個人がリーダーである必要はない。集団のメンバーの大半があまりものを知らなくても合理的でなくても、集団として賢い判断を下せる」
 こうした主張は、少し前にこの欄で取り上げた企業の人事問題にも、おもしろい視点を投げかける。スロウィッキー仮説にしたがえば、有能でないと見なした人々を早期退職に追いやったり非正社員化するのは間違い、ということになる。「優秀な意思決定者とそれほど優秀ではない意思決定者が混在している集団のほうが、優秀な意思決定者だけからなる集団よりもかならずと言っていいくらい、よい結果を出している」からだ。
 こうした理屈からすると、映画『釣りバカ日誌』で、西田敏行扮する釣りしか能力のないダメ社員をかばい続ける社長は、社員の多様性を維持するための合理的な行動をとっている、ということになるかもしれない。
 エリート集団や専門家集団がなぜ間違いをおかすかというと、特定の分野について優れているに過ぎないにもかかわらず、他の分野についても過信しがちだからだとスロウィッキーは言う。さらに均質な集団は、多様な集団よりまとまっており、まとまっている分だけメンバーに対する圧力が強い。外部の意見や異論を排除し、自分たちは絶対正しいという幻想を持ちがちだ。そのことが間違いを引き起こすとのことだ。
 均質で、成員に対する圧力が強いと間違えるということならば、均質社会といわれる日本は間違える可能性が高い、ということになってくる。

『ウェブ進化論』でも、スロウィッキーの仮説を紹介しながら、ネット百科の『ウィキペディア』や『ミクシィ』、ソーシャルブックマークなど”群集の叡知”を集めたサイトをあげている。スロウィッキーも、”みんな”が張ったリンクによって、検索精度を高めたグーグルの例などをあげているし、ネットについても「みんなの意見は案外正しい」と言いたいようだ。ところが、この本の主張とネットの発展方向をあわせて考えてみると、まったく正反対の結論が導き出されるように思われる。
 スロウィッキーは、「みんなの意見は案外正しい」例をたくさんあげているが、やろうと思えば、みんなの意見が正しくなかった例も、同じぐらい並べることができるはずだ。重要なのは、どういう条件であれば「みんなの意見は案外正しい」のかをはっきりさせることだろう。
「みんなの意見は案外正しい」例に比べればかなりあっさりとではあるが、スロウィッキーはその条件にうちても触れてはいる。集団が賢くなるためには、多様性、独立性、分散性の3つが維持されていることが必要だと述べている。多様な人がいる分散的なインターネットは、まさにこの条件を満たしているように見える。しかし、インターネットの進化はすさまじい。いまのインターネットはこの条件からどんどんはずれていっているのではないか。
 というのは、インターネットの世界はどんどん狭くなっているからだ。もちろんネットの世界は量的にはすさまじい勢いで拡大している。にもかかわらず、インターネットは狭くなっている。必要な情報や人にただちにアクセスし、濃密なコミュニケーションを維持することが可能になってきた。SNSやメッセンジャー、あるいは携帯電話などを使って四六時中ほかの人と接していることができるし、まずます便利になり精度を高めている検索を使えば、必要な情報を以前に比べて格段に容易に探し出せる。また、はてなやテクノラティなどを使えば、同じことに関心を持っている人を見つけ出すことも容易になってきた。こうしたサイトを使って、関心の同じ人と容易に親しくなることができる一方で、また逆に、たたくべき相手を見つけてその情報を収集し、攻撃をしかけることもできる。

(中略)

 スロウィッキーはこう書いている。「メンバー同士がコミュニケーションを図り、お互いから学ぶことで集団の利益になる場合もあるが、過度に密接なコミュニケーションは逆に集団の賢明さを損なう」。
 この論理にしたがえば、検索精度がよくなり、コミュニティー機能が高まれば高まるほど、ネットの意見は総じて賢明ではなくなっていくことになる。】

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 先日、「口コミマーケティング」目的で企業からお金をもらっていた(そして、お金をもらっていることは閲覧者には知らされていなかった)女子大生のブログがNHKに取り上げられて「炎上」してしまいました。しかしながら、この事件、考えようによっては、日本でも、そういう「ネットでの口コミ」にお金を出そうという企業が出てくるくらいの影響力が出てきている、ということも示しています。僕自身も、次に観に行く映画を決めるときや、気になった本を買うかどうか悩んだときなどには、映画の感想がたくさん投稿されているサイトとか、Amazonの「ユーザーレビュー」などを参考にしています。誰か個人の意見に大きく揺り動かされることはないとしても、例えば、10人中8人くらいのユーザーが褒めていれば、「まあ、そんなに外れることはないだろう」というような、だいたいの傾向は掴めるのではないか、と思いますし。
 でも、この歌田さんによるスロウィッキーの仮説の解釈を読んでみると、そういう「みんなの意見」というのも、100%鵜呑みにはできないのだな、という気がしてきます。「集団が賢くなるためには、多様性、独立性、分散性の3つが維持されていることが必要」なのだというのはよくわかるのですが、その一方で、その3つがキチンと維持されている集団というのは、ものすごく希少なのではないでしょうか。ネット上で集められた映画のレビューであれば、それを書いている人は映画ファンが多いでしょうから、「一般受けするわかりやすい映画」よりも「多少難解でも、斬新な通好みの映画」のほうが評価されやすいような印象がありますし。そもそも、ネット上の「傾向」は、「インターネットに繋げる環境にある人」に対象が限定されてしまうという面もあるのです。もちろん、ひとつの学校とか会社とかいうような集団よりははるかに「多様性、独立性、分散性」は持っていると思われますが、それでも、「完全ではない」のですよね。それに、最近ではネット上でもヘタなことを言うと袋叩きにあってしまいますから、「多様な価値観のひとつ」でも、表に出るまえに「自粛」されている場合も少なくないはずです。まあ、そういうのは、「現実世界では日常的に起こっていること」でしかないとしても。

 たしかに、これだけネットが「一般化」してきて、その影響力も増してきているにもかかわらず、ネット上での『群集の叡知』がどんどん進化しているのかと問われたら、あんまりそんな気はしませんよね。
 結局は、「絶対に正しい意見」なんてネット上には存在しなくて、「どの意見を信じるのか?」という、個々の受け手の「選球眼」のほうが、より重要なのかもしれません。

 ただ、「正しさ」と「みんながそれに納得し、従うことができる」というのは、また別だったりするんだよなあ……