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2006年11月20日(月)
「人間って、実際は心の問題がすべてに近いと思うんですよ」

『ダ・ヴィンチ』2006年12月号(メディアファクトリー)の特集記事「ほぼ日刊イトイ新聞の謎。」のなかの「糸井重里ほぼ1万字インタビュー”教えて!糸井さん―「ほぼ日」ってなあに?”」より(取材・文は岡田芳枝さん)。

【インタビュアー:一軒屋だった通称・鼠穴からはじまって、現在は表参道の一等地のビルに「ほぼ日」の事務所はあるわけですが、とてもきれいですよね。とくに、トイレが。

糸井重里:トイレって、排泄物は汚いもの、汚いものを捨てる場所、だからこんなもんでいいや、というのが合理的な考えですよね。そこに関わっている時間というのはすごく短いし。でもね、野外フェスだって、トイレがきれいになったから行くようになった人もいるわけです。トイレをきれいにするということは一見ムダなことのようだけど、じつはムダじゃないんです。そういうふうに、ムダなことがとても大事なんだとぼくは思うんですよ。
 たとえば、文学はムダだと言う人がいる。でも、文学のなかにしか、人間がこういうときにはどういうふうにものを考えるんだろうというような心のことを書いてあるものがないんですよ。政治も経済もそれを応用して「人間ってこういうもんだよ」って大雑把に捉えて、「100円と1円があれば、人は100円のほうへいくもんだ」と考えている。でも、人が1円のほうへいくことは、よくあることです。そういうことについての先人の知恵の集積が文学であるとぼくは思うんですね。
 人間って、実際は心の問題がすべてに近いと思うんですよ。誰かに会いたいと思ってはじめて電車に乗るために時刻表を見る、みたいな。心がほとんどを決めている。そうして心について少しでも考えようとすると、いままで人がムダだと言ってきたことを、考えざるをえないんですよね。
「ほぼ日」の根っこにあるものは、消費とか休みとかムダとか、いままでの大量生産。大量消費の社会がやってこなかったことにこそ魅力がある、ということなんです。昔はしょうがなく食べていたおばあちゃんの芋の煮っころがしだけど、いまでは冷凍食品にすらなっている。でも、その冷凍食品のおいしさよりも、もっとばらつきのあるおいしさがあるはずと考えるのが、いまという時代じゃないのかな。ばらつきもあるし、当然はずれもある。でも、こっちにこそぼくらの求めていることがあるんです。ちょっとシンボリックに言うと、恋人の選び方かな。大量生産・大量消費の時代の、最高の美女たちがだーんっと並んでも、何の意味もない。隣に自分のことを好きだと言ってくれている、まあ見ようによってはかわいく見える子がいてくれることが、いちばん大事なんですよ。】

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 「ほぼ日刊イトイ新聞」についての糸井重里さんへのインタビュー記事の一部です。非常に面白い記事なので、興味がある方は、ぜひ原文を読んでみてください。
 ここで糸井さんが語られている「ムダなことが本当は大事なんだ」というお話、読んでいて、なるほどなあ、と思いました。とくに女性は、「あそこはトイレが汚いから行きたくない」と言うことが多くて、僕は内心「花火に行くのであって、トイレに行くわけないのに」とか「トイレの汚さなんて、ほんの数分間のガマンじゃないか」とか呆れ果てていたりもするのです。でも、「他にどんな面白いことがあったとしても、トイレが汚いところには行きたくない」と感じる人がいるというのは厳然たる事実なんですよね。そして、「トイレが汚いところには行きたくない人」を理屈で説得するのは、とても難しい。

 そして、この糸井さんの言葉のなかで僕がいちばん印象に残ったのは、「小説なんて読んで、何の役に立つのか?」という問いに対する糸井さんの「答え」でした。
【でも、文学のなかにしか、人間がこういうときにはどういうふうにものを考えるんだろうというような心のことを書いてあるものがないんですよ。】
 まあ、これは「文学」に限定しなくても、「文学的なもの」つまり、マンガとか映画、テレビドラマなども含んでいるのだと思いますが、確かに、そういう実用的ではない「文学」のなかにしか、人間の「計算式では推し量れないような感情の流れ」というのは含まれていないのです。ネット上での議論を見ていて僕がいつも感じている「この人の意見は理屈としては正しいのに、なんで素直に頷けないのだろう?」というような疑問に対する「答え」は、たぶん、経済学の教科書には書いてありません。そして、人というのは、「自分でも説明がつかない感情に押し流されて」しまったり、「どう考えても計算上は損をしてしまうこと」を自らやってしまったりする存在なんですよね。いまのところ、その理由をうまく「言葉」というかたちにして僕たちに教えてくれるのは、「文学的なもの」の蓄積しかないのです。友人・知人の経験談の積み重ねでは、あまりに効率が悪すぎますし。

 僕自身は、いわゆる「スローフード」や「隣にいてくれる見ようによってかわいく見える子」を大事に感じる心というのも、ひとつの「流行」でしかないのかな、という気もするんですけどね。そして、そういう「心の流行」を掴んでいるからこそ(あるいは、その「流行」をリードしているからこそ)、イトイ新聞は(経営的にも)うまくいっているのでしょう。