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2006年08月09日(水)
川原泉さんの「ハッピーエンドの美学」

『ダ・ヴィンチ』2006年8月号(メディアファクトリー)の川原泉さんへのインタビュー記事「あなたは『笑う大天使』を知っていますか」より。

【川原作品の少女たちは、貧乏だったり、けっこう不幸な境遇にいても、悩み続けたりしない。ごはんを食べたら、ちゃんと元気になる。

川原「彼女たちは自分で不幸な境遇だって、気づいていないんですよね。自覚がない。私んちも貧乏だったんだけど、クラスでとびぬけて金持ちの子の家に行くまで自分ちが貧乏だったって気づかなかったんです。そういうものなんですよ。比較の問題」

そんな彼女たちに、川原さんは、最後に必ず幸せな結末を用意してくれる。

川原「私の作品は、基本的にはハッピーエンドです。昔ね、短篇小説で、読み終えて自殺したくなるような暗い気持ちになるものがあって(笑)。読者にお金を出してもらっている以上、そういうのはちょっとね。いままで1つだけ、微妙にハッピーエンドじゃないものがあるんですけど、それにしたって桃の木の下に埋められた死体は永久に発見されないだろう、というもので(『Intolerance…―あるいは暮林助教授の逆説』)。ある意味ハッピーエンドとも言えますし」】

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 もし、川原さんが昔、「読み終えて自殺したくなるような暗い気持ちになる短編小説」を読むことがなかったら、今の「川原泉の世界」は、全く別のものになっていたのかもしれません。
 僕は以前、パソコンのゲームで、「何十時間も遊んだあげく、最後には自分が敵のボスに乗り移られてバッドエンドになってしまう」というのをやったことがあります。こういう「作品」というのは、たぶん、作家側にとっては、「斬新なエンディング」だという意識があったと思うのです。受け手としても、確かに「衝撃」はありました。現に、20年近く前に一度遊んだだけのゲームなのに、僕はいまでもそのゲームのことを覚えていますしね。でも、やっぱり正直なところ「あんなに苦労したのに、あんな結末じゃイヤ」ではありました。クリアするために使った時間返せ!とか。

 ベタな「ハッピーエンド」って、創作側としては、なんとなく思考停止に陥っているようでイヤなのかもしれませんが、大部分の受け手というのは、救いようのない結末よりも、「安易なハッピーエンド」を求めているのではないでしょうか。その「作品」に愛着があればあるほどなおさら。
 映画や本であれば「衝撃の幕切れ」でも、2時間ちょっとの時間のことですが、マンガの場合は、連載中からの読者にとっては、「結末」にたどり着くまで、何年もかかっている場合も少なくありませんし。
 まあ、必ずしも「ハッピーエンド」ならいいというわけではないでしょうし、安易なハッピーエンドは、かえって安っぽいイメージを与えてしまいがち。実は、「うまくハッピーエンドにもっていく」というのは、けっこう難しいことなのかもしれません。その点では、川原さんの「読者にお金を出してもらっている以上、気持ちよくしてあげなくては」というプロ意識には驚かされます。そこまで「読者」のことを意識しているのか、と。逆に、「読者の期待を裏切ってやろう」なんていう衝動に駆られたりすることはないのでしょうか。

 それにしても、【桃の木の下に埋められた死体は永久に発見されないだろう】とう結末が、なぜ「ある意味ハッピーエンド」なのでしょうか?その作品を未読の僕には、かえって気になるなあ。