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2006年05月16日(火)
泣きながら、「しめた、書くネタができたぞ」と喜ぶ習性

「いい歳旅立ち」(阿川佐和子著・講談社文庫)より。

(関川夏央さんが新聞のコラムで「生殖期以降の固体は種全体のためには邪魔である」と(弱気に)書かれていたという話を紹介したあとで)

【しかしここで考える。生殖期以降の人生は、それほど悲劇か。残る人生はひたすら悲観的なのか。
 脚本家の三谷幸喜氏に会った。氏は若い頃、失恋のかぎりを尽されたそうである。しかしご本人はどれ一つとして失恋とは思っていらっしゃらない。好きな女性から電話がかかってこないと、恥じらっているのだろうと想像する。かけてみて話し中だと、ちょうど自分にかけようとしているに違いないと了解する。愛しい人が、前のボーイフレンドと寄り添っているところを目撃しても、「きっと僕という新しい恋人ができたことを説明しているのだろう」と解釈する。そのあげく、彼女自身にはっきり振られても、その人の幸せを祈って静かに身を引くだけだとおっしゃる。
「そういうとき、落ち込んだり、相手を恨んだりしないのですか?」と伺うと、
「それはないですね。当時からモノを書いていましたから、このネタはいずれ使えるなと思ってた」
 その言葉を聞いて、思わず膝を叩きたくなった。三谷さんには及ばないながら、私自身にもそういう癖がある。悲劇を悲劇と思わない。わんわん泣きながらどこか頭の片隅で、「しめた、書くネタができたぞ」と喜ぶ習性がある。
 これはモノを書く商売の人間にかぎったことではないと思う。他人に話す話題として悲劇はもっともインパクトに富んでいるのである。かつて私なりに悲しいことがあったとき、友達が笑いながら言いおった。
「いいじゃない、歳取って老人ホームで話題に事欠かないから。きっと人気者になれる」
 三十年ほどのち、ペシミスティックな関川さんと入れ歯を鳴らしながら、いかに悲しい生殖期以降の人生だったかを、自慢し合ってみたい。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このあいだ、「エンタの神様」に出ている女性の芸人さんで、こんなふうに「相手の男の行動をなんでもポジティブに解釈してしまう女」のネタをやっているのを観たような記憶があります。ポジティブ思考というのは、度が過ぎればある意味コミカルですらあるのです。ネガティブ思考に陥りやすい僕の場合はむしろ、「電話がつながらなかったら、僕からの電話を嫌がっているんじゃないか?」とか考えたり(現代の携帯電話なら、なおさらね)、はっきり振られたら、しばらくの間は、素直に相手の幸せを祈る気分にはなれそうにありません。
 とはいえ、この三谷さんのエピソードのように、どんな悲劇に対しても、「いつかネタにすればいいや」というように考えていくのも、ひとつの「人生を楽しむ方法」のような気はします。恋愛が終わるときなんて、泣いても喚いても、結局のところ、結論は変わらないことがほとんどですし。
 もっとも、いくらそんなふうに考えようとしても、そんなに簡単に割り切れないのが人間ってやつなんですが。

 しかし、こういうふうにネット上に日記を書いていたり、ブログをやっていたりすると、日々のちょっとした失敗などは、「ネタになるな」なんて、つい考えてしまうのも事実です。確かに、日常会話においても、「自慢話」よりも「身近なちょっとした悲劇」のほうが、はるかにコミュニケーションを円滑にしてくれそう。もっとも、こういう発想が暴走してしまうと「ネタにするための人生」になってしまって、「劇場型犯罪」を起こしてしまう可能性もあります。そこまで行き着いてしまう人というのはごく一部なのだとしても、そのあたりの匙加減っていうのは、書いてご飯を食べているわけでもない僕たちにとっては、非常に難しいところです。

 実際は、「ネタにできる程度の悲劇」ばかりではないことも事実だし、例えば大災害に遭ったり、犯罪に巻き込まれたりしたような「悲劇の記憶」というのは、「老人ホームで人気者になる」ためには役立たないかもしれませんけど。