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2006年05月11日(木)
世間の敵意が、被害者に向かうんです。

「約束された場所で」(村上春樹著・文藝春秋)より。

(村上春樹さんと河合隼雄さんの対談「『アンダーグラウンド』をめぐって」の一部です。『アンダーグランド』は、村上さんが地下鉄サリン事件の被害者の方々に事件当時のことについて行ったインタビューを集めた本です。河合隼雄さんは、高名な臨床心理学者)

【村上:本に納められた証言を読まれて、この人には治療が必要じゃないかと思われた例はありますか?

河合:それはありません。ただ読んでいて「これはつらかったやろな」と思いました。「おかしい」というのではありません。こんな目にあっているんだから、そんな具合になるのは当たり前なんです。これはむずかしいんだけど、PTSDというのは変な人がなるんじゃなくて、普通の人がなるんです。だからそのときに「俺は変じゃないんだ。普通の人間はこうなるんだ」ということがわかったら、それは楽になりますよね。そのときに相談できる人がいたらよかっただろうなと、読んでいてそれはものすごく思いました。そういう意味で気の毒に思いました。

村上:そうですね。相談できる人がいないというのは、ものすごく大きなことだと思いました。

河合:うっかりそんなことを口にすると、「なんやお前、変なやつやな」と思われたりもします。僕も震災のときにずいぶん言ったんです。そうじゃなくて、おかしくなるのが当たり前なんだと。普通の人がそうなるんだと、すごく強調しました。それがずいぶん役に立ちました。あれで助かりましたって、あとになって言われました。

村上:いちばん気の毒なのは、会社がわかってくれないというケースですね。会社に向かう途中で被害にあって、いわば労災なんですが、それでも会社は全然斟酌してくれない。それどころか戦力にならないということで切られている人がけっこういます。

河合:日本人というのは異質なものを排除する傾向がものすごく強いですからね。もっとつっこんで言えば、オウム真理教に対する世間の敵意が、被害者に向かうんです。被害者の方まで「変な人間」にされてしまう。オウムはけしからんという意識が、「なにをまだぶつぶつ言っているんだ」と被害者の方に向かってしまうんです。そういう苦しみを経験している人も多いと思いますよ。

村上:震災のときもそうですが、最初に興奮があって、それから同情みたいなのに変わって、それがすぎると「まだやってるのか」というのに変わってしまうんですね。段階的に。

河合:そのとおりですね。オウムに対する汚れとかそういういろんなイメージが、被害者の側におぶさってくるんです。ものすごく変なことなんだけど、そういうことが起こってしまう。非常に気の毒です。】

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 ああ、なんだかこの話を読んでいて、僕自身も「異質なものを排除する日本人」のひとりであるということを、あらためて思い知らされたような気がします。
 最近の例でいうと、北朝鮮へ拉致された被害者の「家族会」に対する僕の印象も、まさにこの【最初に興奮があって、それから同情みたいなのに変わって、それがすぎると「まだやってるのか」というのに変わってしまうんですね。段階的に。】というのにあてはまるような気がして。
 彼らが、次第に社会的影響力を持ってきて、国会議員に立候補したり、「北朝鮮と戦争をしてでも!」なんて発言をしているのを聞くたびに、なんだか、「なんだかこの人たちは、自分たちの『悲劇』に酔っているだけなんじゃないか?」なんて気分になってしまったこともあったのです。
 考えてみれば、彼らの大部分が望んでいることは、「ここにいるべき人を、いるべき場所に帰して欲しい」という、ごくごく当然のことなのに。そして、彼らの「要求」というのは、達成されて、ようやく他の「普通の人々」にとっての「スタート地点」に立てるくらいのものなのに。
 「スタート地点」に立つために、人生の多くの時間を費やしてしまうというのは、ものすごく悲しいことですよね、本当は。そして、人がそういう状況に置かれれば、なりふりなんて構っていられないのも当然です。いやまあ、だからといって、日本人全員が「日本も核武装すべきだ」というような発想を共有する必要はないとは思うのですけど。
 それにしても「温度差」というのは、日々広がってきているような気がしてなりません。

 誰かの病気に対する周囲の反応というのも、まさにこんな感じのことが多いのです。最初はみんな同情して、「仕事代わりにやってあげるよ」とか、「休んでていいよ」なんてサポートしてくれるけれど、その期間が長くなっていくと、それぞれ自分の仕事がありますから、「本当に具合悪いの?」とか「なんか働いているほうが損だよなあ」なんて思うことが多くなってきます。根本的には「そういう社会が悪い!」のだけれども、シワ寄せを受ける側としては、そんなまだるっこしい「社会の改革」の前に、自分がラクになりたいというのが、率直な気持ちでしょう。100年後の労働環境改善より、明日の残業が無いほうが、正直嬉しい。
 会社だって、プロセスがどうであれ、「あまり仕事もせずに具合悪いとばかり言っている社員」を雇っているというのは、あまり望ましくないはずです。もちろん、そういうプロセスに対して配慮するというのが「理想の社会」だとは思うのだけれど、次第に周囲の反応が冷淡になっていくのは間違いなさそうです。

 拉致事件にしても、PTSDにしても、本人たちの責任ではないことのはずなのに、「運が良かっただけ」で「当事者」にならなくてすんだ側の反応は、けっこう冷淡なものなのですよね。
 あまりに身のまわりのすべてのことに「当事者意識」が強すぎると、それはそれで生きていくのは辛そうではあるのだけれど。