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2006年04月30日(日)
「絶対年齢」と「自覚年齢」

「いい歳旅立ち」(阿川佐和子著・講談社文庫)より。

(「自覚年齢」というエッセイの一部です)

【先日、90歳になる伯母を広島に訪ねた。ちょうど伯母の女学院時代の親友が亡くなった直後だったそうで、開口一番、「○○さんが亡くなったのよ」と言って肩を落としていた。気の毒とは思ったが、ギョッとするほど意外ではない。「あら、かわいそうに」と応えはしたものの、誠意に欠けていたらしい。伯母が小声で呟いた。
「世間の人は皆さんね、80歳過ぎて亡くなると、『天寿を全うしましたね』っておっしゃるけど、あれは失礼よ」
 怒っている。それだけ長生きすれば満足でしょう、死んで当然と思われているようで、不愉快だと言うのである。なるほどごもっとも。誰にも絶対年齢と自覚年齢には差があるのだ。まわりが決めるものではない。
 現に伯母は、その歳でなお、美に対する興味は底知れず、新しい皺取りクリームをプレゼントすると嬉々としてはしゃぐし、健康器具のコマーシャルを見かければすぐに購入し、「お腹がへっこむんですってよ」とダイエットに励むのだから、かなわない。天寿など当分、まっとうする気はないようだ。
 そういえば以前、知人が話していた。
「僕のオヤジがもうすぐ100歳になろうというのに一人暮らしなので、『そろそろ同居しましょうよ』と提案したら、こう言うんですよ。『もう少し歳を取ったら考える』って」
 いい話ではないですか。】

〜〜〜〜〜〜〜

 うーん、「いい話」だとは思うのですが、その一方で、僕の心の中には、「人間って、いくつになっても悟れない生き物なんだなあ…」というような哀しみもあるのです。30代半ばの僕にとっては、100歳まで生きたら、もう十分天寿を全うしたのではないか、なんて考えがちなのですが、当人にとっては、また別の問題で。
 病院の外来で診ている御高齢の患者さんでも、80代から90を超えるような方でも、「これだけ生きたから、もう今すぐに死んでもいい」なんて言われることはないですし(だから病院に来られているのですけど)、「この歳まで生きたから、もう贅沢は言えないけど」と前置きをされつつも「いやあ、もう少し、高校生の孫が結婚するくらいまでは生きたいねえ」などと仰る方ばかりです。もちろん10代や20代の「自分が死ぬなんて発想がない」若者たちとは違って「死」を意識されてはいるのですが、それでも、いくつになってもなかなか「天寿」なんて自分では思えないのが人間というものなのかもしれません。ほんと、子どもの頃というのは、誰もが一度は経験してきた道ではあるけれど、年を重ねていくのはすべての人にとって「未知の世界」ですから、「若者に年寄りの気持ちはわからない」というのは当然のことなのかも。
 まあ、周りとしても、「天寿を全うした」と思ったほうが、精神的に救われる面があるのも否定できないし、それもまた「生きている人間の知恵」なのでしょうけど。
【「『近頃の若いモンは……』という繰り言が聞こえてくると、つい自分のことかと思って『すみません』と謝りたくなっちゃう」とおっしゃったのは、56歳当時の漫画家の東海林さだおさんである。】
 この本には、こんなエピソードも紹介されています。
 もちろん、そういう感じ方には個人差があるとしても、「絶対年齢」と「自覚年齢」を一致させるというのは、なかなか難しいことのようです。

 僕も正直、自分の年齢を考えるたびに「そんなに長い間、生きてきたっけ……」と、よく思います。同じくらいの年の同僚の子どもが小学生なんて聞くと、もしかしたら、自分だけ人生の一部の記憶を失ってしまっているのではないか、なんて戸惑ってみたりもするのです。