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2006年03月28日(火)
「本は必ずしも最後まで読む必要はない」

「吾輩ハ作者デアル」(原田宗典著・集英社文庫)より。

(「読書とは何か?」というエッセイの一部です)

【しかしながら、やがて私は自分の読書の方法に疑いを抱くようになりました。ひとつには自身でも、ものを書くようになったせいもありましょう。自分は何のために読書をしているのだろう? 読了の日付けとサインを記すため――つまりは一冊の本を最後まで読み終えるために、読書をしているようなものではないか。と、そんなふうに思ったのです。いつのまにか私は、誰もが陥りやすい誤解に陥っていました。それは、
「一冊の本を最後まで読み終わらなければ、読書ではない」
 という考え方です。おそらく普通は国語の宿題などで、読書感想文を書かなければならない必要に迫られたりすることから、この「読了の義務感」が生じてくるのでしょう。だから私を含め、多くの人たちが、難解だったり、面白くなかったりしても、何とかして一冊の本を最後まで読もうとします。そして途中で断念したりすると、「自分は頭が悪い」とか「自分は読書が苦手だ」と思い込んで、本から離れていってしまうのです。
 しかしよく考えてみてください。一冊の本を最後まで読み終わることが「読書」なのでしょうか? 違います。本を開いて、読んでいる時間こそが「読書」ではありませんか。長さは関係ありません。5分でも10分でも、本を読みさえすれば、それはもう「読書」です。もちろん最後まで読む必要だってありません。読了できなかったからといって、廊下に立たされるわけではないし、劣等生の烙印を押されることもないのです。読み始めたその本が難しくて分からなかったり、つまらなかったりするのは、読者に責任があるのではなく、作者の責任です。
 ずいぶん大胆なことを言うな、と思われるかもしれませんが、私がこういう考え方に到ったのには、きっかけがありました。20代の半ばにたまたま読んだ随筆の中に、
 「本は必ずしも最後まで読む必要はない。つまらなくなったら中途で放り出して、別の本を読めばいい」
 というような一文があるのに出食わしたのです。書いたのは英文学者で、名文家としても名高い福原鱗太郎でした。
 「世の中には一生を読書に捧げても読み切れないほど沢山の本がある。だから我々は面白い本だけを読むべきであって、つまらない本を無理して読むなんて時間の無駄である」
 そんなふうに書いてあるのを読んで、私は目から鱗が落ちる思いを味わいました。まったくその通りだ、と一瞬にして納得がいったのです。同時に私は、最後のページに日付けとサインを誇らしげに記したいばかりに、つまらない本も斜め読みして読了した気になっていた自分を、恥ずかしく思いました。】

〜〜〜〜〜〜〜

 確かにそうだよなあ、と僕もこれを読んで目から鱗が落ちました。
 ここに引用させていただいた文章の前段には、アメリカの鉄鋼王カーネギーの父親が、その膨大な蔵書に、一冊読み終えるごとに、本の最後のページに日付とサインを入れていたというエピソードが紹介されています。この話を聞いた原田さんは子供の頃から大学の文学部を卒業されるまで、同じように読了した本に日付とサインを入れておられたそうですが、しだいに、それが「読み終えた本をコレクションするための読書」のように感じられてきた、とのことなのです。
 まあ、このエピソードを読んだ僕の心には、一瞬、「そんなふうにサインとかしたら、ブックオフで買い取ってもらえないじゃないか!」という考えが浮かんだのも事実なのですけど。もちろん、カーネギーのお父さんの時代にはブックオフはなかっただろうし、金銭的・空間的な理由で本を売る必要なんてなかったのだろうとは思いますけど。
 ここで紹介されている【「本は必ずしも最後まで読む必要はない。つまらなくなったら中途で放り出して、別の本を読めばいい」】という言葉に、今の僕は素直に頷くことができます。でも、20歳くらいだったら、たぶん「本の価値なんて、読み終えてみないとわからないし、そんな『自分にとって面白い部分』だけ読んでいたら、いつまでたっても自分のレベルアップにつながらないじゃないか」と感じていたように思われるのです。そして、たぶん、その時期の僕には、そういう本の読み方が必要だったのでしょう。
 こんなふうに「面白い部分だけ読めばいいのだ」という考えは、僕自身の「残り時間の少なさ」による焦りなのかもしれません。でも、読みかけの本を山のように積み上げてしまっている僕としては、「結局、あの本を最後まで読めなかったのは、自分にとって『面白くない』『必要じゃない』本だったからなのだ」と考えると、けっこう気がラクになるんですよね。もちろん、そういう本だって、読むタイミングによっては、「自分にとって忘れられない本」になっていた可能性も十分あったのでしょうけど。そして、どんなに面白い本にも「つまらない部分」はあるし、大概のつまらない本にも「面白い部分」はあるのです。

 ところで、この文章、「本」を「恋愛」に置き換えてみても面白いのではないかな、と感じました。【長さは関係ありません。5分でも10分でも、本を読みさえすれば、それはもう「読書」です】なんて、まさにそうなのかもしれないな、と。