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2006年03月17日(金)
「お水ください」に秘められた決意

「NAMABON」2006年4月号(アクセス・パブリッシング)の原田宗典さんの連載エッセイ「そういえばこないだ」より。

(原田さんが近所の商店街の小さなカレー屋に入ったときに「水のピッチャー」が出てきて感心したというという話の続きです)

【別にピッチャーがなくたって、店員に水のおかわりを頼んでガブ飲みすればいいじゃないか、と思われるかもしれないが、混みあっている時や、店員からは死角にあたる席についた場合などには、やはりどうしても遠慮してしまう。だから店員の動向や顔色を窺いつつ、声をかけるタイミングを探るようになる――するとこの間には、頭の中で「何と言って水を頼もうか」なんてことを考えてしまったりする。ただ水のおかわりを頼むと言っても、その店の雰囲気や店員の態度、性別、こちらの気分によって、頼み方は様々である。そういえば私の父親は、どんな店に入っても、空になったグラスを軽く掲げて、大きな声で、
「おひやちょうだい!」
 と頼むのが常であったが、これを真似するのは、なかなかどうして難しい。店員が若い女性だったりすると、”おひや”という言葉が通じなかったりするし、”ちょうだい”という言葉がなれなれしく響いて、怪訝な顔をされることもある。やはりここはひとつごくベーシックな言葉を選択して、
「お水ください」
 と言うべきだろう――そう判断を下して、店員が近くを通りがかった時に、この言葉を口にする。ところが私の場合、遠慮がちな気持ちがあるために声が小さくなっているからだろうか、3回に1回くらいの割合で、申し出を無視されてしまうのである。自分としては色々と気を遣って、できるだけハキハキと口にしたつもりの「お水ください」が伝わらなかった時の、恥ずかしい挫折感というのは、小さからぬものがある。店員には届かなかったその声が、大抵他の客たちには聞こえていて、周囲には、
「おっと、空ぶりですね」
「お気の毒さま」
「バーカみたい」
 などという同情とも嘲笑ともつかぬ雰囲気がもやもやーんと漂うので、こちらとしてはいたたまれない気分を味わう。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕はこの原田さんの文章を読みながら、「ああ、こういうのって、僕だけじゃなかったんだ!」と、ものすごく心強い気分になりました。いやほんと、あの「お水ください」が伝わらなかったときの挫折感というのは、本人にとってはかなりのものなのです。
 僕はもともと滑舌が悪く、その上自意識過剰であまり人前で大きな声が出せないので、こういう「お水ください」とかを店員さんに言うのって、すごく苦手なんですよね。その上「お水だけなんて、タダなんだから悪いかなあ…」なんて考え始めたりすると、「お水ください!」なんて大声で叫ぶのは、なんだかとても嫌になってしまいます。ましてや、その「嫌な自分を押し殺して出した叫び」がスルーされてしまうと、ものすごく落ち込んでしまうのです。もともと自分自身に「滑舌が悪い」とか、「声が小さい」なんていうコンプレックスがあると、なおさらこういうのってショックを受けるんですよね。「ああ、僕の言い方が悪いから伝わらないんだ……」って。
 そんな感じですから、もちろん「おひやちょうだい!」なんて言ったことはありません。それで「なんて馴れ馴れしいオッサン!」とか思われたら悲しいもの。回転寿司でも、たどたどしく「お会計(あるいはお勘定)おねがいします」を貫いて生きてきました。「おあいそして!」と言える大人にいつかなれるのだろうか?なんて思いつつ。「おあいそ」なんてカッコつけちゃって…なんて周りにみられるもの嫌なんですよね。
 そして、回転寿司での注文のときには「マグロ1皿お願いします」なんてガチガチになって店の人にお願いしては、同行者に「そんなに気合い入れて注文しなくてもいいんじゃない?」なんてバカにされたりするわけです。そんなこと言われても、あなたの声はよく通るし聞き返されることはないかもしれないけれど、こっちだって必死で注文しているんですよね、その「マグロ1皿」を。あの「はあ?」って聞き返されるときの辛さって、ハキハキ族には一生わかんないだろこんちくしょう。
 ほんと、ああいう「お水ください」というような店員さんへのアピールって、意識すればするほど難しくなるような気がします。
 だから僕は、「活気がありすぎる店」って、いまだに苦手なのですよね。その一方で、あんまりしみじみと構われるのもダメなんだけどさ。