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2006年02月12日(日)
「MSゴチック」への異常な愛情

「ダ・カーポ」577号(マガジンハウス)の連載コラム「ことばのことばっかし」(金田一秀穂著)より。

【筆記具だけでなく、その時に書かれる文字の形も、思考の流れと影響し合うような気がする。気分的に落ち着いているときは、文字の形も安定していて、思考も安定しているように思う。なぜか文字が乱れ、粗っぽくなってしまうときがあって、そういうときに書いたものは、後で読み返すことができないくらい貧しいことしか書けていない。
 手書きのときは、そういうことが当たり前であった。自分の書体は自分の脳内環境の顕れであるように思える。で、これがパソコンで、キーボードで打つことが普通になって、なおまだ、字体と思考が関連し合っているようなのだ。
 この原稿はパソコンで打っているが、いろいろな字体が選べる。で、私の好きなのは、MSゴチック、というものだ。40字×40行。ぴったり400字詰め原稿用紙4枚分にして書く。
 教科書体や明朝体で書かれているものは、自分の考えではないような気がする。自分の考えが乗り移ってくれないのだ。他人が書いたようなよそよそしさがある。とりつく島がないのだ。MSゴチであれば、いかにも自分の書いたものであると思える。
 少し丸く、面を隅々まで使って拡がった書体。粘りけがあるような、それでいて明るく軽い。そういう字体が私の思考をきっちりと載せて運んでくれるような気がする。
 たかが機械の字である。画面の上に電気で映されているかりそめの文字なのだが、しかし、字形はとても大切なのである。】

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 言語学者、金田一秀穂さんの「字体」に対するこだわりの話です。僕は最近、自分が10年くらい前に仕事で書いたものを見直しているのですが、その手書きの文字を見ていると、「ああ、これを書いたときは、本当に気持ちに余裕がなくて、半泣きになりながら書いてたよなあ…」というようなことが次々と頭に浮かんできます。やっぱり、忙しかったり、気持ちが沈んでいるときには、そういう文字、あるいは文字列を書いているもののようです。
まあ、字の汚さは不変であるとしても。
 今はもう、ワープロ時代ですから、そういう「書いているときの気持ち」というのは、少なくとも「字体」には顕れないだろうな、と思っていたのですが、この金田一さんの文章を読んでいると、その「ワープロの字体」ですら、書いている人の気持ちを反映しうるものなのだ、ということがわかります。もちろん、人それぞれ好みの「字体」というのはあると思いますし、だからこそ「WORD」にも、あれだけたくさんの(これ、どういう状況で使うの?というものまで含めて)字体が登録されているのでしょうけど、それにしても、【MSゴチであれば、いかにも自分の書いたものであると思える】なんてことは、考えたこともありませんでした。
 これを読みながら、そういえば、ワープロで初めて自分が「書いた」ものを印刷したときには、その「本のような文字」に、「なんだか偉くなってみたいで、自分が書いたものとは思えない」というような気分になったことを思い出しました。あの頃は、「活字であること」そのものがファンタジーだったのですが、今は、「手書き」の機会が少なくなった分だけ、「ワープロの字体」に個性を反映させる時代のようです。そういう意味では、「フォント弄り」なんてのは、まさに「自分らしさ」の希求なのかもしれませんね。