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2005年08月23日(火)
僕の思う優しさには、どこかうそがある。

佐賀新聞のコラム「本へのいざない(11)」で、みうらじゅんさんが、松本清張さんの「ゼロの焦点」について書かれた文章の一部。

【一人っ子で両親の愛情を一身に受け、何の不幸なこともなくヌクヌクと育った僕は、楽しく陽気な人間になれたけれど、他人の気持ち、特に弱者の痛みが分からずにきた。みんな、自分と同じと思い込んでいたからだ。
 世間知らずと言われればそれまでだが、僕の思う優しさには、どこかうそがある。僕もまた、その優しさを問われるのが怖くて、必死でその話題を避けてきたように思う。
 何もかも、うまくいっている状態が正しくて、自分の力ではどうすることも出来ない不幸な状態は運命であり、決して僕には起こらないものだ、と信じて生きてきた。
 他人の身になってものを考える。これが優しさの起源なのに、僕はいつだって、他人とどうかかわるかについてばかり考えてきたように思う。

(中略)

 出来ることなら、優しい人間でいたい。そのためには、弱者の気持ちに少しでもなれる訓練をしなければならない。人間の犯す罪の裏に、どれだけの悲しみがあるのか、それを僕は、松本清張から学んだ。】

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 イラストレイター、エッセイスト(なんてわざわざ書かなくても、たぶん「知っている人は知っている」と思うのですけど)、みうらじゅんさんが書かれた文章です。
 「相手の身になって、ものを考えましょう」というのは、それこそ、小学生時代から言われる「優しさの秘訣」ですし、そんなこと、みんな知っているはず。でも、この文章を読んであらためて考えてみると、僕は「いかに相手の身になって考えるか」ではなくて、「いかに相手の身になって考えているように、相手(あるいは周りの人)に思わせるか」を、ずっと計算し続けてきたような気がするのです。
 僕の「優しさ」というのは、結局「誰にも後ろ指をさされたくないから、優しい態度をとってみせる」というだけのもので、それこそ「偽善」だったのではないかと思うのだけれど、でも、やっぱり誰かにそれをあらためて指摘されれば、とても悲しくてつらかったと思います。だったら、どうすればいいのか、所詮、僕は僕以外の何者にもなれないじゃないか、と。
 結局、「優しいこと」じゃなくて「優しく見えること」を選んでしまっているだけなのだ、なんてこと、心の中ではわかっていたはずなのにね。
 僕もそれなりに普通の人生をすごしてきましたから、それこそ、「どんなにがんばっても報われない状況というのがあるのだということもわかりますし、そういう壁が僕の目の前にあらわれることがあるというのも、頭では理解しているつもりです。
 でも、その一方で、たぶん、【自分の力ではどうすることも出来ない不幸な状態は運命であり、決して僕には起こらないものだ、と信じて生きてきた】のです。生きるというのは、知らず知らずのうちに、そんなロシアンルーレットの引き金を日日引き続けているのかもしれません。そして、弾が出てはじめて、自分が握っていたものが拳銃だったということに気がつく。
 本当に「優しくなる」というのは、難しいことですね。「偽善」でも、それで助かる人がいるならば、それはそれで無価値なものではないのかもしれないしさ。
 「うそのない優しさ」って、いったい、どこにあるのだろうか?